明治川神社行ってきたよ

     明治用水の頭首工に行った時に途中で寄ったんだけど、ちょっと長くなりそうなので、明治川神社の部分だけ別エントリーにしようと思ってたらいつの間にか時間が経ってた。今更だけど、アップすることにした。とはいっても、写真ばかりなので、それほど書くこともない。
     明治川神社は明治用水旧東海道とが交差する地点に祀られている。この地域は、岡本兵松らが新用水工事を準備する頃、県庁の役人を迎えて会合を開いたり、宿泊させたり、あるいは、盛業式後の祝賀会を開いた土地である。完成当時の新用水にとっては、広い世間に対する玄関に当たる位置であり、顔の役目をする地点だったのである。神社はそのような場所に建てられた。
     歴史を繙くと変遷があるようだが、現在では水神社に、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松、西沢真蔵、伊佐雄社に田中勘七郎、本多寛三郎、加藤太兵衛、黒宮許三郎、中根祐、木藤八三郎、黒川治愿、本多又左衛門、小原権太夫、天野金右衛門、加藤吉右衛門が祀られている。この中で、伊豫田与八郎命、岡本兵松命、田中勘七郎命、加藤太兵衛命、黒宮許三郎命、中根祐命、木藤八三郎命の7柱は存命中に祀られるという異例の扱いを受けている。神道的にどうなんだろう。現人神? 神職である伊豫田は神事に当たり、衣冠束帯に見を整えて列席するが、一般の神職が参詣者の最前列で参詣者と同じように上に向かって座るのと違って、参詣者に対面する形で着座したという[1]

    建立当時の明治川神社[2]


    昭和2年 明治川神社全景[1]

     現在と表門の位置が異なる。

    表門

     昭和30年代に神社の表門を拝殿の正面に変え、昭和40年1月には大鳥居ができた。笠石に継ぎ目のない石材の鳥居としては愛知県下最大、国内でも有数のものだとか。柱石の直径が根本で90cm、高さは8.7m、笠石は幅95cm長さ12mの一枚岩、原石は岐阜県蛭川村産の花崗岩である。

    表門の掲示

     以下の文が記載されている。


    社記

    一、神社名 明治川神社(水神社)

    一、例祭 4月十八日

    一、鎮座地 安城市東栄町柳原九番地

    一、祭神 大水上祖神(みくまりのおやのかみ) 水分神(みくまりのかみ) 高龗神(たかおかみのかみ)

     都築弥厚命、伊豫田与八郎命、岡本兵松命、西沢真蔵命

    一、崇敬者 壹萬五千戸

    一、由緒 文化五年(1808年)頃、都築弥厚翁が碧海台地の開発を計画されて寄り、七十余年の歳月を経た明治十三年(1880年)四月十八日、松方正義内務卿参列のもとに用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴(現地)が盛大に挙行された。その時の一同の歓喜と感激とがここに結集して神社を創立することとなった。即ち、長年用水の缺乏をかこち農村の疲弊に泣いたのが、用水路の開通によって一大飛躍を見るに至ったので、水に由縁の深い神、三柱を同年十二月現今の境内地に勧請し奉った。その後、明治十七年十月社号を明治川神社とし、翌年一月本社の公認を申請、同年四月一日無格社として認可を得同年十月十日本社が落成した。明治四十二年(1909年八月無格社より郷社に列格、翌四十三年四月共進神社に指定された。大正四年(1915年)十一月都築弥厚大人が合祀され、続いて昭和十七年五月伊与田与八郎命、昭和二十六年五月岡本兵松命がそれぞれ伊佐雄社より、又、昭和三十一年三月西沢真蔵大人枝下用水が共に合祀されて用水の守護神として厚く奉斎を受け給うのである。昭和二十八年一月三十日宗教法人となり現在の神社等級は四級社である。



    一、神社名 伊佐雄(いさを)社(末社)

    一、祭神 田中勘七郎命、本多寛三郎命、加藤太兵衛命、黒宮許三郎命、中根祐命、木藤八三郎命、黒川治愿命、本多又左衛門命(北野用水)、小原権太夫命(北野用水)、天野金右衛門命(鹿乘川)、加藤吉右衛門命(鹿乘川)

    一、例祭 十月十八日

    一、由緒 当社は本社の左側に鎮座ましまして「功」つまり功労者を奉祀する神社である。もとは、明治十四年(1881年)上倉池の小島の上に発起者並びに出資者を奉祀し、開拓小作のため移住した人々と共に鎮守の神として崇敬の誠を捧げていたが、この上倉池も開拓し盡くされたので、明治十八年明治川神社の公認認可を機会に現在の地に遷座し奉った。ここに特筆したいのは、関係者が何れも存命中に神として奉祀せられた所謂、「生祠」であることである。なお、昭和四十七年八月鹿乘川沿岸用排水土地改良区が明治用水土地改良区に合併したため、北野用水、鹿乘川の開さく改修に功労のあった各二柱が翌四十八年十月合祀せられた。

    明治川神社社務所

     なお、上の書付で上倉池の「倉」がこのように変な字になっているが、別の部分ではちゃんと「上倉池」と書いてあることから、書き間違えたんだと思う。
     高龗神の読み方について、この掲示文には「たかおかみのかみ」ってルビが振ってあるんだけど、明治用水百年史には「たかおかのかみ」って書いてある。どちらの読み方も世の中に存在するようで、こういうのはどちらが正しいとかはないのだと思う。
     高龗神というのはあんまり聞かない神だけど、日本書紀伊弉諾尊(いざなきのみこと)が軻遇突智(かぐつち)を3枚に下ろして切った時に各肉片が雷神(いかづちのかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、高龗となったとある[4]貴船神社に祀られているのが有名所である。「オカミ」は文字の形状が示すように水神を表す。

    手水舎


    本殿



    橋の手前の石碑

     以下の文が記載されている。


    明治川神社池

     明治用水の守護神を奉斎する明治川神社の神池は、明治本流が管水路になった昭和四十九年から明治用水の流れを引き入れている。しかし、経年により引き込み管路が老朽化したので、これの回収と排水施設の新設を行い、また「蓑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントを設置した。

     この事業は明治用水通水百二十年記念事業として、明治用水の悠久の流れと五穀豊穣地域の発展を祈念して施行した。

     平成十一年4月十八日

      奉納 明治用水土地改良区

     「田植えをしている姿をイメージしたモニュメント」ってどれのことだろう。

    神馬

     昭和2年の図にこの馬が描かれているが、それとは別物。昭和25年に鳥居の耐震化に合わせて再建した。

    伊佐雄社

     功労者を奉祀している。
     何かイベント中なのか、注連縄に真新しい紙垂が取り付けられており、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったので離れて写真を撮るだけにしておいた。

    楽殿

     写真を取るのがヘタすぎて辛い。
     神楽殿なのか幣殿なのか分からないけど、そんな感じの建物なので。祭りの時とかここで神楽舞とかしそうな建物。
     左に伊佐雄社が見える。

    社務所

     石碑には「疎通千里、利澤万世」と刻まれているらしい[3]

    何か建物

     上のが社務所だとすると、この建物は何だろう?
     鉄筋コンクリートで事務所っぽい感じもするけど、注連縄ついてるし、よく分からん。


    20170218追記
     先日、改めて明治川神社に行ってきたら、境内入り口の掲示が新しくなっていた。

     書いてある中身はだいたい同じだけど、ちょっと違う部分がある。


    社記

    一、神社名 明治川神社(水神社)

    一、例祭 鎮座地 4月十八日 安城市東栄町六丁目二十五番地一

    一、祭神 大水上祖神(みくまりのおやのかみ) 水分神(みくまりのかみ) 高龗神(たかおかみのかみ)

     都築弥厚命、伊豫田与八郎命、岡本兵松命、西沢真蔵命

    一、崇敬者 壹萬五千戸

    一、由緒 文化五年(1808年)頃、都築弥厚翁が碧海台地の開発を計画されて寄り、七十余年の歳月を経た明治十三年(1880年)四月十八日、松方正義内務卿参列のもとに用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴(現地)が盛大に挙行された。その時の一同の歓喜と感激とがここに結集して神社を創建することとなった。即ち、長年用水の缺乏をかこち農村の疲弊に泣いたのが、用水路の開通によって一大飛躍を見るに至ったので、水に由縁の深い神、三柱を同年十二月現今の境内地に勧請し奉った。その後、明治十七年社号を明治川神社とし、翌年一月本社の公認を申請、同年4月1日無格社として認可を得、同年十月十日本社が落成した 明治四十二年(1909年)八月無格社より号社に列格、翌四十三年四月共進神社に指定された。大正四年(1915年)十一月都築弥厚大人が合祀され、続いて昭和十七年五月伊与田与八郎命、昭和二十六年五月岡本兵松命がそれぞれ伊佐雄社より、又、昭和三十一年三月西沢真蔵大人(枝下用水)が共に合祀されて用水の守護神として厚く奉斎を受け給うのである。昭和二十八年一月三十日宗教法人となり現在の神社等級は四等級である。



    一、神社名 伊佐雄(いさを)社(末社)

    一、例祭 十月十八日

    一、祭神 田中勘七郎命、本多寛三郎命、加藤太兵衛命、黒宮許三郎命、中根祐命、木藤八三郎命、黒川治愿命、本多又左衛門命(北野用水)、小原権太夫命(北野用水)、天野金右衛門命(鹿野川)、加藤吉右衛門命(鹿野川)

    一、由緒 当社は本社の左側に鎮座ましまして、功労者を奉祀する神社である。もとは、明治十四年(1881年)上倉池の小島の上に発起者並びに出資者を奉祀し、開拓小作のため移住した人々と共に鎮守の神として崇敬の誠を捧げていたが、この上倉池も開拓し盡くされたので、明治十八年明治川神社の公認認可を機会に現在の地に遷座し奉った。ここに特筆したいのは、関係者が何れも存命中に神として奉祀せられた所謂、「生祀」であることである。なお、昭和四十七年八月鹿野川沿岸用排水土地改良区が明治用水土地改良区に合併したため、北野用水、鹿乘川の開さく改修に功労のあった各二柱が翌四十八年十月合祀せられた。

    明治川神社社務所

     鹿乗川が鹿野川になっとる。安城の人が間違えるはずがないので、字の上手い人を他所から呼んで書いてもらったのかな。

    参考文献
     [1] 明治用水百年史, 明治用水土地改良区(1979)
     [2] 神谷素光, 写真集安城いまむかし, 名古屋郷土出版社(1989)
     [3] 明治川神社
     [4] 日本書紀(一), 岩波書店(1994)

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