古安城聞書

 新美南吉は生前、都築弥厚の伝記を書こうとしたそうで、その際にリサーチしたメモ書きが残っている。古安城聞書というタイトルが付けられている。ちょっと探してみたがネット上で公開しているサイトが見つからないので、そんなに長い文というわけでもないのでここで上げておくことにする。
 オリジナルは岩滑(やなべ)公民館に保存されている。書かれたのは昭和16年頃。半紙に鉛筆で書いたメモで、岡田庄太郎(当時安城農業図書館長、昭和21年明治用水理事長、昭和40年2月没)と山口英信(仙台了雲院住職、昭和35年没)からの聞き書きである[2]
新美南吉全集 第9巻に収録されているらしい[1]。この本は持っていないがででむしの歌に掲載されていたのでそのまま写す。できるだけ元のまま写すため、みっともない交ぜ書きとかもそのままで読みづらいけど、こういのに敢えて手を加えると碌なことにならないのでそのままで良いと思う。

安城聞書 岡田庄太郎 山口英信 南吉写
京都の安祥寺といふあまで野良らふそくの御料地であったと。 らふそくの樹が植わってゐた。
はせ、のの山、森、のむらなどはみならふをあつかった姓。
寺子屋、庄屋を了雲院の先代がしてゐた(六十年位前)
碧海郡安城町名の起こり
安祥、やすきなどといろいろいった。
知立神社に青海首という神がまつってある。この群の主といふ。
宮中へかやにふくよしを献納した。この辺一面よし原。
やはぎはてい坊なかった。安城からしほさしの宮(水源)まで船でゆき、それから鎌倉街道で名古屋へいった。船賃百文だったといふ。百々という地名そのあたり。
馬は三河はすぐれてゐた。このあたりは牧場であり牧内(安城)牧法堂(ムツミ)の地名今にあり。
﨑という名、三河に多し(桋﨑、山崎、ななさき、とっさき戸崎、せいさき根崎、萬五郎﨑、みぞ﨑など安城付近にあり)海だった。
かすめ神社(船頭がかすみのうちから見たので。)
最もよい戦場であったらしい(戦国時代)その前はこのあたりはよかったらしい。
長者のやしきが女学校寄宿舎あたりにあったといふ伝説。戦場であった時代のあとは荒地、狐や狸の話が多い。人々はひらけている ~ 狡猾であったらしい。
安城ヶ原といふは今より広かったらしい。野田神社あたりまで、上郷あたりまで。
観音堂といいふ大きな寺があった。その手水鉢が一つ了雲院にのこってゐる。
めしびつ、山崎先生宅の西、北は池浦、南はみのわ。大山田といひし。(多小山田上、―中、―下)
濱池、(あやめ)―南方、天草の池(鬼ばす)―古井の西(安城史話参照―﨑の話)
嫁をやるなら安城にやるな年がら年中野良仕事(百年ぐらい前)
安城地獄。ため池をつくって水をくみあげた。
?二百二十のあぜがあった低地。
安城のめしびつといはれた。その一つ一つの田にため池と井戸があった。
井戸水をくむのに早くいかぬと、他の井戸をくむためその同系統の井戸は水がさがった。
働く人種。安城の人間は何処へいっても働きでは負けぬ。
開さくの時一日中右ぐわばかりつかひ二日目は左くわのみをつかふといふやうな競争をしたりした。
みつぼいなだきといふ言葉(三粒の穂をいただいた。)
肥えた土をもって来てやせた土地に入れた(客土)東尾の川下や、畑の台土を。
一車はこべば一升ふえる。
がに又になるほどひいた。
安城若い衆は足を見りゃわかる。
安城若い衆のあしオショク。
どこの家でも庭さきに二間位の穴あり、肥土や堆肥を入れこね、一冬こし、これを他に入れた。
米や麥をくはずにそば粉汁をのんで仕事に出ると体が冷えた。
まはれひき臼はや出よこがし
やがて山から兄が来る。
山林へ兄は車ひきに仕事にいってゐる。
明治二十四年駅附近一里四方家は無かった。安城ヶ原の中心だから家のない所に駅を作った。
願書をだしても政府からうけつけない。羽根村につくって岡崎駅なら、安城につくっても西尾駅だといふので、西尾へ通ずる大きい道をつくったが、西尾の名をきらったので、知立駅といふ名でつくることにして材料はみな知立駅として来た。出来ると安城駅になった。豊田屋が早く出来た。(三十年位前)
それからぼつぼつ他町村から人が来て家をつくった。
明治という名は了雲院の先代がつけた。(北明治は以前新新田、右新田いはれてゐた。がそれでは新田(出郷)の出店のやうにきこえるので)―明治八年、
十六町の共通地へ出ることを希望する者には宅地九畝畑三畝余を提供した。(小松原)―開墾奨励(鉄道以前)
やうやく五、六軒出た。開墾は夜やった。昼は奉公人をして。
希望でシケン場は出来たが一向まにあわなかった。一向おしへてくれなかった。
今の駅前の一番いい通りになってゐる土地は水持ちがなく悪い土地で一段に酒一升をつけて、人にくれてやったのである。(鉄道前)
駅が出来て花火があがった 二十七年
試験場ができた。二十七年
農林学校(県に工業と農学林が出来るといふことをきいたので。町民の運動。工業は今の高工。) 三十四年 説教場ははやくできた。宗教心はつよい。
山崎先生をはじめ農林の先生は夜学をして夜会教育をした。町民の希望で。
町民の運動といふやうなことはそのころはなかった。そこへ安城が運動をしたので、シケン場も農林も安城にデキたのである。
二十八才で山崎さんは安城に来た。汽車中で○○が青年とあって話をした。しっかりした青年であった。あとからきくと大阪のさる学校にゐる山崎とわかったのでそれを読んでノウリンの校長にすへた。
拝木(ヲガムギ)をの木にのぼるとサナゲ山がをがめた。
岡田さんは鶴のとぶを見たことあり。
赤松にたのまれて別所のししまひが、途中のいなりでどんどんヒューヒューやっていた、狐にだまされて。
四本木(いなり神社のところ)
狐が庄屋へたのみに来て、四本の木をのこしてもらった。開墾中に。
狐の通るみち(草のねたところ)をさぐり、それを辿ってヤコウは大体測量した。狐は高みをとほる、湿気のない。だから用水はいま高いところばかりを通ってゐる。
第二話
明治川神社のあたりにかめぐらの行けといふ四、五十丁の池。おにばすしげる
そこの鮒は腹中にきしめんのやうな虫がゐたといふ。
草の乱の時代土堤をきづいた池。古井にありき。天草の池といふ。
うけづきをする祭。あきやさんをまつる。うけをもって魚をすく。
○某、足の太さほどのうなぎを前日とったが、それは禁制ゆえ、かくしてゐた。
○東尾、西尾などに清水が湧いた。それをためてくわんがい。たいてい二、三段を作ったのみ。
○祖先の土地を売った人はたいてい亡びてゐる。売らなかった人は持ちこたへてゐる。
○おぶくさまのみ米のめし。麥八割位の飯をたべた。粟やきびやそばなどまぜた。ひえはこのあたりはとれず。
そばの葉もすてず、乾かし、粉にしてたべ、さといものいもがらもすてず。朝麥めし。夕はんはおじやをたべ。
○9ツになると寺子屋。はじめ酒一升、こわめし二重、にしめ一重箱(上等な家庭)習字が主。それで教育ができた。
筆子をいくたりも持ってゐたのは上流。
米や麥をそまつにするなといふ教育が主眼であった。
○名主(庄屋)にわりもと庄屋(一流)百戸以上のとだいだい庄屋百戸以下ねんばん庄屋と。
村民に選挙されてなる。
庄屋の下に組頭クミガシラ。庄屋は税、組頭が行政。
○庄屋はあまり品行よくなかった。しかし、庄屋は非常に才智あり、いろいろな問題を裁かされた。
○役。殿さまの荷物を藤川の問屋から岡崎までまた知立までもたされた。これがひんぱん。
○衣服。たびをはかず。わらぐつ。
下駄はかしのこまげた、のちにやきすぎ。半ももひき(俗にさるもヽひき)に木綿着。長いものは祭礼時のみ。
○足駄は武士のはきもの。
○よく働きに江戸へ出た。江戸では徳川との関係上、使用人として優先権があったらしい。貧乏でたべられなくなるとみな江戸に奉公に出て小金をためて帰って来た。
○赤土は上等。黒い土(くろぼこ)(灰のごとし)が多かった。これが仕様のない土であった。
焼土をよくつくった。瓦やくやうなかまどでやいた。
弥厚は因果思想を持った。
人間も土地も教育すればのちにはよくなる。その当時よかった尾張の土地なども祖先の苦心のたまものと考へるに到った。(はじめは人にも土地にも天は不公平であると思ったのだが)自分がよい境遇にめぐまれたのも、祖先の努力の結果であると考へた。―仏教思想―(仏教信者)
○元日は朝早く神社、手にまゐる。
もちは男のたべるもち(純すいの)と女のもち(まざりものあり)とあった。
○秋のひがんから春のひがんまで毎夜よなべ。なわなひ、俵つくり、あらぢ、女はわたくり。
○正月二日の朝ひきぞめ(土の)
○七日は七草のおかゆ
○十五日はもち。椿にもちの花をつけひきうすに飾る。
久永(ひさなが)内記のぶとよ。元禄年間はじめて領主となる。四千三百五十四石二斗四合
安城の分、2千三百四十九石七斗六升一合 あとは米津と西加茂の加納で。
○八月はまつり。天草池の提灯まつり。
○九月月見。だんご。あんころまるめた。むらくもだんご。
○八月うんか送り。
○内職木綿にしてうった。三河木綿。
どの家にもはたをり台あり。
綿は米や麥と同じにつかはれてゐた。綿買ひ。
了雲院の正門は土地の男女が、女は綿を、男は縄をつくってそれを売ってつくったと。
女は毎晩つもの木二本多く、男は二把多くして。
○夏ははねつるべで綿畑に水を入れた。
つばきの花の灰を綿の実にかむせてまくとよい。大豆を刈る前にそのうねまへまく。
安城の殿様ちん(わた)くりなさるしかも五つの役つきで。―殿様貧乏。
○火事でやけると組内の人々が米や麥をもってよりあつまって片付けた。
まるやけの場合は、めしびつや家財道具をもっていってやった。隣組の美風。
○第三夜(九月十日) (岡正さんのみ)
○水を大切にせよと教へられ、顔を洗った水は木や畑にかけよといはれた。
湯樽(ユダル)の残り茶はよその田でもよいからそれにあけよといはれた。
○第一回目に来た移住者は大抵かへってしまった。
地がやせてゐて何もできぬので。
尤最初二、三年は土地が多少肥えてゐるのでできる。
二回、三回の移住者がのこった。
○土を一車ひけば一升多くとれるといはれた。
○農民の反対した理由の一つ。百姓が貧乏な殿さまから苛れん誅求された上に賦役をおそれた。
○開墾したあとの田は竹の根などがあって、稲を植えるに、竹のへらや鎌の古刃を用いて。草はは生えぬので除草の代わりに竹の根などをひろって、畦に干かし、たきもんにした。
○開こんしたあとはやせてゐて草も生えなかった。だから草の生えるやうな土地は非常に喜ばれた。
(伊与田与八と岡本兵松については他の記録の如し)

 底本としたででむしの歌だが、画像を検索しても書影が見つからないので、ここで上げておく。



参考文献
 [1]『校定 新美南吉全集 第9巻』(大日本図書), 新・なにを読むべきか.com
 [2]狐牛会, ででむしの歌―新美南吉と安城, 愛知県安城市立泉小学校(1971)