矢作神社行ってきたよ

 矢作神社に行ってきた。
 岡崎の矢作川右岸にある神社で、矢作川に縁があるっぽい。
 矢作川については20140629に色々書いたので特に書くことはない。転記しようかと思ったのだけど、分量が多かったのでやめた。

まずは入り口から。

 道の右側には「郷社矢作神社」の石碑がある。
 道の先には木に隠れてるけど、灯籠の向こうに鳥居がある。
 道の左側には矢作神社の説明の立て札。

矢作神社YAHAGIJINJA――岡崎観光文化百選
伝説では、「東征の折通りかかった、日本武尊に住民が、この地に住む賊に苦しめられていることを訴えた。大和武尊に命ぜられた矢作部たちは矢を作ろうとするが、竹の生えている川の中州まで行けない。突然一匹の蝶が人の姿となり竹を切り取ってきてくれた。矢作部たちは1万本の矢を作り、武尊は神社に祈って賊を滅ぼした。それ以来、神社は矢作神社と呼ばれた」とされます。ほかに、新田義貞ゆかりの「うなり石」があります。
Yahagi literally means to make arrows and this name came from the legend of Yamato Takeru in which he ordered the local people to make arrows. The shrine grounds contain arrow bamboo plants, and a sacred stone relevant to the battle between Ashikaga Takauji and Nitta Yoshisada in 1335.

 この他、中国語とスペイン語らしき言語で同様の内容が書いてあるけど、書き写すの大変なのでやめ。
 大和武尊というと、駿河の沖で海に転落死した大和武尊の衣服が師崎に漂着したことからその内海を衣浦と呼ぶようになった[1]という話を思い出す。大和武尊に因んだ説話ってのは日本中にありそうだし、矢作神社とは関係がなさそう。

鳥居

 どういうわけか鳥居は舞台の上に建てられている。何か意味があるのかな。
 鳥居の左奥には手水舎が見える。
 鳥居の前には注意書きがある。

あぶない
灯籠や石碑の上に登らないでください
万一事故が発生してもその責任は一切負いません。矢作神社

 下のほうが潰れて読めないけど、当たり前のことが書いてある。


 灯籠の左側には掟が掲示されている。


神社の尊厳を冒す一切の行為を禁止する
矢作神社


 鳥居の下には不細工な猫がいた。

鳥居の左手前側

 庭園っぽいのと「明治廿三年八月」の石碑。明治23年というと1890年、何かあったかなと思って調べてみても、特にイベントらしきものは見当たらない。この庭園を作った紀念碑だろうな。

表忠記念碑

 写真だと写りが悪くて横に書いてあるのが読めなくなってるけど、「陸軍中将従三位勲一等功二級男爵土屋光春書」と書いてある。

旧驛矢作郷惣鎮守

 光の加減で写りが悪すぎて何が書いてあるのか読むのが大変なので、コントラストをいじって読みやすくするとこんなふうになる。
 「旧驛」ってことは、ここに宿場とかバス停とかがあったってことかな。

鳥居の奥左側

 山車格納庫、手水舎、社務所っぽい何か。
 当然だけど、普段は山車を見ることはできない。こんな感じらしい。
 山車格納庫の横には説明文の掲示がある。

 岡崎市指定文化財
  矢作町二区
有形民俗文化財 祭礼山車 一台

 この山車は、江戸時代末期の作品である。正面屋根は上げ下げが自由に出来るようになっている。牛若丸と天狗の彫刻を始めとして、彫刻は全て金箔、極彩色が施してあり、豪華な幕類とあいまって華麗荘厳、見事な作である。
 矢作町には過去四台の山車があったが、現在はこの東中の切と西中の切の二台が保存されている。
 山車の高さ 山を上げたとき 7.09メートル
         山を下げたとき 6.00メートル

 昭和四十八年三月二十三日指定

 岡崎市教育委員会


鳥居の奥

 右側の大和武尊陶像が一際目立つ。

 矢作神社においては大和武尊は重要キャラなのでこうやって像を建てて祀られている。

  大和武尊陶像
 大和武尊は、その生涯を東奔西走し、日本の国を平定開拓された英雄であります。
日本書紀」によりますと、景行四十年(四世紀頃)東夷が反乱を起こしたので、大和武尊を東方に派遣しました。この地(三河国蓬里【現矢作町】)で東夷と対戦した時、川の中州にあった良質の矢竹でたくさんの矢を作り突破したという伝承があります。のちこの川を矢作川と、また里の名を矢作と改称しました。
 この陶像は、皇紀2600年(昭和15年)を記念して建立されたものです。

 建立 昭和十八年十月(1943年)
 奉納者 陶像 高橋信一(名古屋市)
      建設費 高橋信一(名古屋市)
           鋤柄護夫(矢作町)
 製作者      杉浦庄之助(高浜市)

 以前調べたときは、この地域で矢を作っていたことで矢作と呼ぶようになったとのことだったけど、ちょっと違うことが書いてある。大和朝廷がこの地域を取り込むときにこういう話を作ったんじゃないかな。

秋葉神社

 大和武尊の向かいにある建物。
 額とか灯籠に秋葉神社っぽい文字が書いてある。
 神社の中にちっこい神社があるのはよく見かけるけど、どういう意味があるのかなとか思ったりする。それぞれに神様がいるんだと思うけど、複数の神様を一緒に祀ってたりもするし、神道はよく分からん。矢作神社にはこれ以外に八幡宮が入り口の横にある。
 前面に貼ってある札みたいなのは「日の丸を高く掲げて国づくり」と書いてある。

大和武尊の奥にある石碑

  矢作神社
 鎮座地 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵壱番地
 祭神 素盞嗚命 豊受大神 保食神
 例祭 十月二日
  由緒
第十二代景行天皇の御代に大和武尊が東夷御征伐の時軍神として素盞嗚命をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。永保三年(1083)源義家陸奥守として奥州へ征伐に行く途中大和武尊の故事にならって参拝されたと伝えられている。その後建武二年(1335)新田義貞足利尊氏との戦いで戦勝を神前に祈願した折社畔の石が鳴動した。これは神のご加護があると信じて大いに戦いついに勝ちを収めたといわれている。伝えて「うなり石」として拝殿の西南に在る。天文年中(1532-54)岡崎城主松平廣忠は祀田ニ十石を置いたが当社は中古より矢作橋改築ごとに城主及び普請奉行から奉幣寄進するのが例であったという。第一次世界大戦後帝国軍艦矢矧の艦長以下船員一同の崇敬篤く艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行しまた兵員一同正式参拝も行われ軍艦矢矧の模型を奉納されている。中古牛頭天王と称したが維新後旧名の矢作神社に復した。明治五年九月十七日郷社となり明治四十年十月には神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
秋葉神社には加具土命を奉仕す。

 写真がちょっとぶれている。毎回きれいに取れたか確認してないからなあ。撮影が下手なのはどうにもならない。

もうちょっと奥

 だいぶ本殿に近づいてきた。
 掲示板に貼ってあるものはちょっと読めない。
 右側の柵の手前に何か立て札がある。

文化財を大切にしましょう
  岡崎市指定有形民俗文化財
 「矢作神社絵馬群」十二点 矢作神社
 矢作神社は大和武尊伝説を残す古社で、矢作橋や土場が近くにあったことから、水運業者などの奉納が多い。
矢作橋杭打図 (延宝二年(1674)奉納)
 図中、矢作橋では杭を打ち込み、二隻の船上では儀式が行われている。江戸時代二度目の架換えの無事完成を祈願したもので、裏に「天和二年(1682)正徳二年(1714)]と墨書きされているのは後の改造工事安全祈願であろう。
矢作橋設計図 (延享三年(1746)奉納)
 延享2~3年(1755~6)矢作橋四度目の架換えが行われた時の設計図額であ■(岡崎城出展中)
義経弓流し図 (宝暦十二年(1762)奉納)
 屋島合戦で源義経が弓を海に落とし、敵中その弓を拾った故事。画面下方に流される弓が描かれている。
・桜花奔馬図 (正徳五年(1715)奉納)
 加納風の端麗な筆で、桜と喜遊する馬二頭を描いている。正徳五年は、矢作橋三度目の架換えの年。
・白馬に仕丁図 (天明元年(1781)奉納)
 当地方の画家によると推定される。天明元年は、矢作橋六度目の架換えの年。
このほかに、源頼義図・黒馬に仕丁図・恋飛脚大和往来図・馬図・七福神図・六歌仙図・狩衣武者乗馬図 以上各一点
  平成三年2月六日指定
    岡崎市教育委員会


本殿

 ちょっと遠いけど本殿。
 本殿前になんか掲示がある。

 矢作神社のご祭神
矢作神社のご祭神は素盞鳴尊です。
この神様はよく御存知の通り伊勢神宮にお鎮まります天照皇大神の弟御に当たられます。祗園祭で有名な京都の八坂神社、大宮市の氷川神社(関東地方)又中部、東海地方では津島市津島神社も同じご祭神です。この神様は大変粗暴な神様として多くの話が伝えられていますが、尊の名を呼びまた尊を祈るものには喜んで救いの手を述べると言い伝えられている様に、この神様は邪気を払い、悪事、災難、悪魔をも払い除けてくださる神様として全国的に篤い信仰が広がっているのです。尚、農耕守護の神としても有名な、お方です。
  矢作神社

 神道に「悪魔」って概念があったっけ?

 以上、矢作神社でした。


おまけ
矢作神社の入り口脇にある八幡宮

 なんか鳥居が小さい。その昔、小説ダンジョンマスターで見た「神に仕えるように進むのだ」っていう記述を思い出す。ひれ伏して進みなさいっていうことか。


 「御大典記念樹」「敬宮愛子内親王殿下御誕」と書いてあるので、愛子さまが生まれたときに植えたのかな。



 こちらにも掟が書いてある。
 文面は矢作神社と同じ。


神社の尊厳を冒す一切の行為を禁止する
八幡社



 本殿。表に張り出してある紙には秋葉神社に貼ってあったのと同じ「日の丸を高く掲げて国づくり」。


おまけその2
 折角なので、矢作川周辺を歩いてきた。


 堤防の方から見下ろしたところ。
 リア充どもがでかい音で音楽鳴らしてBBQして遊んでる。爆発しろ。


 河川敷に侵入するルートが整備されている。
 以前は好き放題繁った草をかき分けないと河川敷に入れなかったのに随分と変わったものである。

 矢作橋から上流を臨む。


参考文献
 [1]村瀬正章, 碧海の歴史, 松籟社(1985)

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