安城ヶ原の水争い

 都築弥厚が明治用水を計画する以前の水争いについて、ネットでは殆ど情報が見つからないので、上げておく。

鷺蔵池事件[1]
 鷺蔵池は岡崎領上野村の粟寺新郷(現豊田市)にある3.3haの池であったが、上の村ではこの池を必要とせず、かえって水害のもとであると考えていた。そのため、岡崎領ではこの池を開墾して水田にする方が得策だと考え開墾の計画を立てたのであった。ところが、鷺蔵池から流れる水は里村の八幡池に入っていた。つまり八幡池は鷺蔵池の子池になっていたわけである。そこで、鷺蔵池の水が得られなくなることは里村の農民にとっては死活問題であった。また、猿渡川は八幡池を水源としていたため、猿渡川の身を用水として使っていた重原藩や刈谷領はこぞって鷺蔵池の開墾に反対したのであった。これが有名な「鷺蔵池争論」と言われるものである。この争論は数回にわたって行われたのであるが、1681年の幕府の裁許状「鷺蔵池は上野村にあっても、里村が用水として使う以上は、池を開墾することは一切まかりならぬ。」をたてに、里村を始め関係の村々がこぞって反対したため、鷺蔵池の開墾はついにできなかったのである。
禰宜田池事件[1]
 1833年(天保4)9月のことである。箕輪村の禰宜田池に安城村の百姓が堤を壊して稲を植えたというので、箕輪村の村役人が抗議したが受け入れられなかった。そこで箕輪村では、水源地の回復を求めて訴えを起こしたのであった。ところが、安城村の言い分は箕輪村の言い分を否定し、箕輪村の禰宜田とかきろうどというのは、安城村菅池のことで、安城村の田であるのに、禰冝田村の百姓がやってきて、稲を踏み倒したことを逆に訴えたのであった。事件は村役人の交渉では解決が着かず、ついに、江戸寺社奉行にまで訴え出ることになったわけである。かくして1835年11月に池の境を決めて解決を見たのであった。
芦池争論[1]
 1790年、この頃の高棚村は、米の石高1千石に満たない、小さな部落であった。安城ヶ原一体にある大小多くの溜池の中で、この地方最大の広さを持つ芦池が高棚にはあり、面積80haにもおよぶこの池は、境を接する野田・半城土村(刈谷)と、池の管理や境界をめぐって争いが絶えなかった。
 あたかもこの芦池を挟んで、3つの村は睨み合う状態に位置していたのである。高棚村では、この池から5つの樋門を通して、新池・蛙田池・柿無白田池の3つの池に水を分け、そこから田に水を引いていた。だからこの水は、高棚村の命の水であり、901間におよぶ堤防を堅固に築いて水を蓄えていた。
 野田・半城土村は、この芦池の水を必要としたわけではない。池の水を落としたあとに生える草や、池の付近の草や薪の確保が必要なわけで、それに、池の近くまで迫っている田を、さらに拡大する新田開発を望んでいた。しかも、池の水の増減に寄って広さが変わるためもあって、池と周りの境界がはっきりしていなかった。だから、高棚村で堤防を高く築くと、野田・半城土村に浸水するという。高棚村ではこの浸水地を池の内だと主張して譲らず、争いは収まることがなかった。
 結局、収集はつかず、代官所などへ訴えるのであるが、幕府代官にしても、こうした農民の不平不満が大きくなることを恐れ、和談がすすめられた。その時、仲介役を引き受けたのが和泉村の都築弥厚(弥四郎)で、和談の場所に彼の自宅を提供して事を治めた。
 1800年には、堤の高さや池についてのいろいろな協定が結ばれるのである。しかし、もともと双方不満のままの協定は長く続かなかった。ついに1803年には協定を破棄し、直接幕府評定所へ訴えでたのである。このとき、高棚村の庄屋重蔵が、単身で池の境として築いた野田・半城土村の塚を破壊し、命をかけて村の代表として江戸に行った。と伝えられている。無論野田・半城土村でもだまってはいない。やはり代表が江戸へ訴え、争論したのではあるが、幕府評定所も、これらの訴えを裁き押さえることはできず、あやふやな旧来の監修を尊重するにとどまった。このため高棚村と野田・半城土村の芦池争論は、その後もしばしば再発した。
作野池[2]
この溜池は篠目・谷田・八ツ田の三箇村共有の池で、文久3年(1863)には、単なる口約束では収まらず互いに文章でもって固い約定をしている。干ばつの時には、溝ざらえには各村鍬二挺、同時刻でなければ出動してはならないとか、無断で自村以外の溝ざらえを行った場合には以後一切鍬入れを禁止するといった厳しい定めになっていた。農家は、溜池の水だけでは足りないので、各自に井戸を掘り人力で汲み上げて、それぞれの畑に水を入れるのが通例で、そのために要する労力は莫大なものであった。

 鷺蔵池の裁許は安城市文化財図録に掲載(魚拓)がある。
 これ以外にも長田川井堰事件などがあったそうで、詳細が分かったら追記しようと思う。

参考文献
 [1]狐牛会, ひとすじの流れ : 評伝・都築弥厚・石川喜平, 安城文化協会(1972)
 [2]明治用水百年史, 明治用水土地改良区(1979)

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 20140629 矢作川