石川喜平

 先日、明治用水の関連の文書を書いていて、その調べ物でWikipediaを見たときに、明治用水(archive.today)の項に、明治川神社に石川喜平が祀られていると大嘘が書いてあった。
 Wikipediaの間違いを修正してやろうなんていう気は全くないので放置しておくのだけど、履歴を調べてみると20170510archive.today)のUnriped Lemonarchive.today)による編集で石川喜平が加えられている。
 それはそうと、現在Wikipediaには石川喜平の項目はない。普通にWikipediaを使わない方法で調べれば全く情報がないわけではないのだけど、折角なので明治用水百年史に書いてある内容をあげておこうと思う。
 なお、安城市高棚小学校に石川喜平の銅像(魚拓, InternetArchive)がある。

2. 石川喜平

芦池の村 高棚村に石川喜平きへいが生まれた天明8年(1788)に、矢作川の堤防が大雨のために決壊し、翌年も同じ水害が起きている。この頃は、全国的に襲った天明の飢饉が、何年も続いた不安な時代であった。
 高棚村あたりの碧海台地は、水害よりも日照りによる被害のほうが多かった。災害による農産物の減収が、年貢の現象になって藩の財政を圧迫していた。高棚村は刈谷藩の領地で、藩の切迫した財政難をしのぐため、翌年分の年貢を前納させる先納金が求められ、それが何年も続けられたので農民の不満は極限に達し、寛政2年(1790)ついに百姓一揆が起きた。
 高棚村は、米の生産高1000石に満たない小さな村であったが、80ヘクタールほどの広い溜池を持ち、水不足の心配は少なかった。けれども、60ヘクタール近い芦池あしいけという大きな溜池を挟んで隣接する野田村や半城土はじょうど村との間に、池の管理や境界をめぐって争いが絶えなかった。
 野田村や半城土村は、芦池の水のないところに生える草を必要とし、そこを開拓する新田を望んでいた。だから、堤防の高さによって池の面積は変化し、その高さが争いのもととなっていた。寛政12年(1800)都築弥厚が仲裁に入って協定が結ばれたものの、享和3年(1803)協定は破棄され、再び争いは続いた。こうした農民同士の闘いを、眼の当たりに見て育ったのが喜平であった。
 合歓木ねぶのき村(岡崎市)の和算家清水幸三郎は、文化1年(1804)桜井神社に算額を奉納した。新しい問題・算学修行を解き、それを板に書いて神社に奉納するのは、研究発表の場にもなっていた。
 喜平の屋敷跡は、今も喜平の血を引く2軒の農家が屋敷を構え、なお1軒分余りの空き地があって40アールほどの広さがある。現在の農家3戸分の広さの屋敷であったことから、かなりの地主階級の家柄であって、和算修行の経済的裏付けもあった。5年近くの修行の後、喜平は文化9年(1812)2月、神の前で誓った神文を師に捧げ、師の後を継ぐ師範の免許を受けるまでになった。
 吉田光由みつよしの『塵劫記じんこうき』が寛永4年(1627)に出ると、和算は急速に広まり進歩した。この本の内容は、珠算での割り算や掛け算の仕方を基礎にして、数の大小・量の単位・整数の性質・比例・案分・利息計算などから、級数平方根・立方根をも含んでいる。また図形では、幾何図形・相似形・勾配・面積・体積・測量などを具体的に取り扱っている。学問としての系統性こそまだ見られないが、当時の社会にあった親しみやすい優れたものであった。この『塵劫記』は、幾度の改定を経て、実質的にも江戸時代の和算普及に大きな役割を果たし、日本の数学を方向づけた。
 幕府を始め各藩では、土木工事や年貢などに必要な勘定型とか、治水工事の役人に数学の知識のあるものを登用するようになった。だから数学で一家をなそうとする者が現れ、そうした人々は一層専門的になり、実用からはなれた高度な数学を生むことになった。優れた和算家が新しい問題をいくつも世の和算家たちに問い、それを解いた和算家が、さらに新しい問題を世に問うといった遺題継承の習慣は、和算の進歩に大きな力をなし、中国の数学を凌ぐまでになっていた。その中心人物が関孝和せきたかかずであり、1700年頃には、関流和算が確固たる地位を占めた。
 ピタゴラスの定理・正多角形・円周率などの系統性のあるものも現れ、かなり複雑な計算、一次方程式・帰化図形は、和算の限界に近づいていた。天元術という算木を使う方程式の解法の発達も、少し複雑なものには無理があり、多元連立方程式の必要から、文字で表す筆算の工夫が要求され、点竄てんざんと呼ばれる和算独特の方法を考えだした。
 喜平が弟子に天元術を教えるために使った算木が、大量に残っている。長さ3センチばかりの割り箸を細くしたようなもので、一方は黒く塗って負の数を表し、もう一方は赤く塗って正の数を表す。この算木の並べ方で、加減乗除から平方根まで計算することができる。
 天元術と違い点竄術は筆算式であるため、係数ばかりでなく文字でもよかった。だから問題を解く場合、未知数をいくつも使い、その中の未知数を次々に消していって、最後に未知数一つの方程式を残すという方法が使われた。西洋の代数記号の便利さにはかなわないまでも点竄という記号を使った筆算台数が日本に生まれ、固有な和算として発展した。そして、関流和算が頂点に達していた頃、それを喜平が学んだのである。
 喜平の残した関流和算の写本だけでも、数十冊を数えることができる。『関流算法天元術』『関流算法図門』とか書かれた関流何々のものから『算法點竄』が数巻見られ、面積や体積、それに購買を扱ったもの、図形でも弧や弦にもふれた内容などを克明に写し書いたもの、また、版になって印刷されたものが本になっている。
 天文や暦の本も多い。『暦法日食推方』『平天儀図解全』など、暦術何々、とか、太陽何々とか書かれた写本が多い。石川喜平直頼なおより著、または改、と記された『太陽行度之率』『象限義弦九十度正弦余弦』など数冊もあった。
 和算家としての喜平は、天文学も習得していた。その上『渾発測量拠径術』なる書物を読んでいたことからも、測量学にも深く立ち入っていたことであろう。この知識と技術が、用水路計画測量に力となって働いたことは言うまでもない。
 喜平が師範となった文化9年(1812)、和泉村の弥厚は根崎の代官職に付き、大きな夢を実行に移そうとしていた。
都築弥厚との出会い 刈谷藩での百姓一揆の例もあって、農民の先納金拒否の訴えは強く、ようやく幕府権力の衰えの中にあって、農民の要求を頭から押さえることはできなかった。そこで村役人や庄屋を通じて話し合い、妥協していくことになる。村役人には、農民の事情に通じた有力者や人望化を登用した。
 喜平は、刈谷藩から役人として登用を望まれながら、それを拒否したと伝えられている。役人に登用された民間人の給料は安く、地位も低く、何の魅力も感じなかったのであろうか。それとも純粋な学者であり、近辺で尊敬され、多くの弟子を教えたり、好きな学問をすることに満足していたとも考えられる。
 喜平と対象的なのが弥厚であった。芦池論争を始め、多くの村と村との争いに仲介役として活躍したり、財政に給した刈谷藩に大金を貸したり、多量の米の取引をしたりしていた。藩の権力と結びついて事業を成り立たせていた弥厚は、やがて根崎代官所の役人となり、大地主・大商人として、弥厚一族の力を一層大きくしていった。
 大酒造家・大地主の発想から生まれた新開計画も、用水路の開削を伴うものであったため、喜平の頭脳が頼りになった。弥厚は、事業家としての手腕と代官職としての政治的背景を持ち、用水路計画実現のための科学的裏付けと、技術的裏付けを喜平に求めた。だから、弥厚の財力と政治力、喜平の科学技術の力は、用水路計画の表裏一体となることを、二人は互いに理解していたであろうし、どちらの一方が欠けても、この計画は動き出すことはなかった。
 喜平は科学的裏付けを重視することからも、この計画の困難さを十分予測していたであろうし、弥厚も、たとえその手腕と財力を持ってしても、容易でないことは承知していたであろう。けれど積極的な弥厚は、難事業ではあるが可能性十分な計画であるとの自信を持っていたと考えられる。そこで、弥厚は喜平を説得することになり、立場の異なる二人の議論は容易にまとまらなかったが、弥厚の説得に喜平の心は動き、測量を承諾する。このとき弥厚は既に60歳に近く、喜平は30代なかばの働き盛りになっていた。伊能忠敬の日本地図が完成した頃である。新しい測量技術は、日本地図を書き換えさせたばかりか、用水路の開削を可能にしたと言える。
測量の困難 用水路計画の測量に出かける喜平は、いつも村人の目を避けていた。高棚村の農民たちは用水路計画に反対していたからである。
 平らに見える碧海台地は、いたる所に小さな谷あり川ありの野林原野が多く、村によって田畑の灌漑の状態や事情が異なっていた。台地の田畑は、井戸や溜池の水を使っていたが、不足がちであった。谷間沿いにある古田は、湧き出る泉谷小川の水を利用できるところに分布していた。また、海岸に近いところや矢作川に近い低みにある田は、水不足よりも大雨による水害を恐れていた。油ヶ淵あぶらがふち周辺では、田の排水をいかにするかが問題になっていた。
 いくつかの村が喜平の測量を妨害した。高棚村には、これを実証する記録こそないが、喜平がこっそり隠れて測量に出かけねばならなかったのは事実で、その背景には、芦池があるために、他から水を必要としない村の事情があった。用水路としての水路ならば、必要ないというのが村の言い分であった。当初の計画では用水路の末端を油ヶ淵に落とすものであったが、地元農民の激しい反対にあって、計画変更を余儀なくされることになった。そうすると、高棚村あたりを通り、衣が裏へ落とすことになるのではないかと懸念されるようになり、ますます反対の立場で結束していく。水量調整という技術的な面で、利用される可能性があったからである。奇しくも、今の明治用水が実現するときも、全く同じ反対が起こっている。学者として村人の尊敬を受けながら、その村人にまで極秘にして測量を続けた喜平は、よほどの決意と自身があったのだろう。
 喜平の学問と技術の優秀さを実証したのは、弟子の石川浅右衛門(通称浅吉)の働きがある。彼は土木建築請負の棟梁であったが、前浜新田の堤防が台風によって破壊されたとき、その復旧工事のための測量で、技術の優秀さが認められている。その喜平の測量技術を認め、用水路計画に活かそうとしたのは弥厚である。弥厚の膨大な計画に不安を持ちながらも、喜平は、全能力を注ぎ込んでいったものと考えられる。高棚村農民の反対する理由を十分承知しながら、あえて弥厚の計画に参加した喜平の心の中には、測量技術の自信からくる確かな希望があったからであろう。
 幼稚な測量器具で書かれた用水路測量図が、現在も高く評価されるのは、喜平の測量知識と技術がかなり高度なものであったことを示している。弥厚の用水路計画は、石川喜平直頼という学者の力によって、実現への第一歩を踏み出していく。文政9年(1826)に5年近くを費やした測量は完了する。
教育者喜平 清水幸三郎林直を継いで、和算の師範となった石川喜平直頼は、自分の代の市販に、林直の孫を育て上げている。当時の和算家は、数学的なものを中心にして、測量・天文・暦なども会得し博学であった。
 喜平の弟子には、いろいろな階級のものがいた。寺子屋の筆子のように、読み書きそろばんを習う農民の子弟から、浅吉のような大工職人、商人、学問好きな者など、それに岡崎や刈谷あたりの武士も教えを受けていた。『朔月ノ術録』と表記されたものの中に、門人石川重蔵、石川利□、神谷庄助、岡崎御家中中供□殿、吉良銀次、生田茂之助、その他数人の門人が記録されている。
 喜平が克明に計算し続けたものに暦がある。潮の干満、太陽の方向と自国など、長い間の記録があり、全て計算によって出している。天文は最も得意だったらしく、弟子への説明用であろうか、ノートに書かれた図表や説明文に並べて、月と太陽の形を切り抜いたものが貼り付けてある。しかも、その月と太陽が回転するように工夫してあり、その距離を示す紙テープも付けてある。竹ひごと紙で作った天球を表す模型とか、星座盤と満干潮や日の出・日の入り・月の動きなどを組み込んだ模型などの、立体的な教具をも使っていた。
 晩年は生きるために畑を耕し、教える楽しさと、学問する喜びに浸ることが、喜平の最高の楽しみだったと思える。今も伝えられる喜平のいくつかの逸話が、それをよく表現している。そうした学者として、教育者としての姿に感動し、その学問の深さに畏敬の念を持った多くの弟子たちによって建立された墓碑は、今も立派に立っている。文久2年(1862)75歳で、高棚村の土となった。
石川喜平 年譜 天明8年(1788)高棚村に生まれる
享和3年(1803)伊能忠敬三河尾張を測量
文化1年(1804)清水幸三郎、算額を桜井神社に奉納
文化4年(1807)喜平、和算の師清水幸三郎に入門
文化5年(1808)石川浅右衛門(喜平の弟子)生まれる
文化9年(1812)和算師範の免許を受ける
文政4年(1821)伊能忠敬『大日本沿海興地全図』完成
文政5年(1822)仙右衛門とともに用水路の測量開始、同9年測量おわる
文久2年(1862)75歳で没す
昭和48年12月高棚小学校校庭に胸像が建てられる


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