昨年の暮れ頃からチェルニー30番を指定のテンポで弾いてみるという苦行を始めたのだけど、11番を練習しているときに漸く気付いたというか、思い出したことがある。「脱力しないと速度を出せない」ということ。それまでは脱力を意識せずにテキトーに指を動かしていた。脱力といってもその程度があるので、それまでは脱力を意識していないというだけでまったく脱力なしで演奏していたわけではない。というか、まったく脱力なしでは体を動かせない。
そんなわけで脱力したわけだけど、結局11番は脱力しても指定の速度には至らなかった。そんなもんだ。
それはそうと、ピアノ・脱力奏法ガイドブック Vol.2 〈実践編/チェルニー30番を使って〉というお誂え向きの本を見つけたので読んでみた。今回はこの話。ちなみにこの本、チェルニー30番を使って脱力の訓練をするということを目的としており、チェルニー30番を攻略するためにはあんまり参考にならない。
「ショパンポジション」という言葉が出てきた。どんなポジションか知りたければVol.1を読めと酷いことが書いてあった。
その昔、ショパンの位置からという糞ラノベを読んで「ショパンの位置」という言葉を知ったのだけど、その後二度とこの言葉を目にすることがなかったので藤本ひとみの創作なのか、あるいは、ショパンがEとCに1と5指を置いて2~4指をその間の黒鍵に置くというスタイルを好んだということからこの配置を「ショパンの位置」と名付けたのかと思っていた。Vol.1を読むと下図に引用したように、このことを「ショパン・ポジション」と言うらしい。
さて、この本における問題の根本は著者に物理学の素養がないことである。以下にそれを示す。
例えば、下記の一文がある。
鍵盤を沈ませるためにかける圧力は、最低ライン(発音しない状態)で平均して50gが必要です。 |
「圧力」という物理用語が出てくるが、圧力というのは面積辺りに掛かる力のことであり、単位はパスカル(Pa)を使う。
1Paは、1平方メートル (m2) の面積につき1ニュートン (N) の力が作用する圧力または応力と定義されている。つまり、1Pa = 1N/m2である。
ニュートン(N)というのが力の単位であり、1ニュートンは、1キログラムの質量をもつ物体に1メートル毎秒毎秒 (m/s2) の加速度を生じさせる力と定義されている。つまり、1N = 1kg・m/s2となる。
つまり、引用文では面積と加速度の項目が欠けている。正しく表現するには例えば、「鍵盤を沈ませるためにかける重さは、最低ライン(発音しない状態)で平均して50gが必要です。」などとしなければならない。
本書では圧力という用語を一貫して使用しているのでこれ以降は突っ込まない。
鍵盤が元に戻ろうとする抵抗感(アップリフト)
水の上に浮いている木片が鍵盤というイメージを是非持ちましょう! 指先を木片につけて10mm静かに水面に押し下げた後に、指先が触れたまま力を抜いて水しぶきを上げないように木片を水面に戻すのが、ピアノ奏法の最適なシステムです。 したがって、鍵盤を押すときに適切な圧力を使いますが、鍵盤を戻すときには、指の力を抜くだけで良いということになります。 この元に戻るための圧力は平均して約25g程度です。 |
さて、いきなり引用から入ったけど、鍵盤を戻すときには本当に指の力を抜くだけで良いのか、という疑問がある。ちなみに、最後の25gの部分は25gf(あるいは25g重)として読み替える。
完全に指の力を抜いた時の指の重みが25g以下の場合は指の力を抜くことでキーが元に戻ろうとすることに間違いはないのだけど、その時のキーが戻るのにかかる時間がどの程度かを求めてみる。
指の質量をF(g)、キーの質量をK(g)とするとキーが戻ろうとする際の加速度は、
(25-F)g/K(m/s2) ――①
となる。
時間をt(s)とすると速度v(m/s)は次のように表すことができる。
v=(25-F)g/K (m/s) ――②
キーが戻る時間は、上の式を積分することで得あっれる。キーのストロークは1cmなので0.01mとして表すと、
t=0.1(2K/(25-F)/g)0.5 (s) ――③
となる。
キーの質量が不明なのだけど、上の式が得られたので何となくキーの質量を予測することができる。というのは、ピアノの同音連打可能な速度から概算できる。Wikipediaによると同音連打速度はアップライトで7回/秒、グランドで14回/秒とのことらしい。実際のところ、打鍵にかかる速度を考慮しなければならないけど、人類が最速でどれくらいの速度で打鍵できるのかちょっとわからないし、この回数にしても人間が打鍵したとも限らないし、結局よくわからないので約0秒で打鍵したことにする。
グランドピアノの14回/秒で計算してみる。1回の打鍵に要する時間は1秒/14回 = 0.0714秒となる。この値をそのままtに入れてしまいたくなるけど、グランドピアノの場合はキーのストロークが1cmなのだけど、ダブルエスケープメント機構があるため、完全にキーが上がりきらなくても打鍵できる、その高さは5mmである。すると、式③は
t=0.07071(2K/(25-F)/g)0.5 (s) ――④
と書き換えなければならない。ここでt=0.0714s、F=0g、g=9.8m/s2としてKを求める。するとK=123.7gが得られる。
キーの質量を求めたので、これを式③に代入する。
t=0.1(247.4/(25-F)/g)0.5 (s) ――⑤
指の力を抜いてキーが戻ってくる時間はこのようになる。
指の質量とキーが戻る時間の関係をグラフで表すと次のようになる。
こんな感じとなった。実際にピアノを演奏する際には4分音符で60bpsで16分音符というゆっくりめの曲で同じ音を2度続けて弾くなんていう状況はいくらでもあるわけで、それだと1秒間に4回のペースなので1打鍵辺り0.25秒振り分けられる。仮に打鍵にかかる時間が0.05秒としても0.2秒でキーが戻ってきてきてもらわなければ弾けないわけである。すると、指の重量はグランドピアノで22g、アップライトで19g以下でなければならない。
実際、指の重さというのはどんなもんだろうと思って測定してみた。
使用した秤は近所のケーズデンキで買ってきたドリテックKS-121。分解能は0.5gで1000.0gまで測定可能。
指を乗せる角度によってかかる重さが変わってくるので角度を変えて測った。
1.人差し指だけ秤に乗せて残りの指は全部机の上に乗せた状態。完全に腕のほうが鍵盤よりも下に来るグールドスタイル。この時の重さが59g。
2.鍵盤と腕が同じ高さにくる標準的なピアニストのスタイル。普通はこの弾き方で指導を受けるはずである。44g。
3.鍵盤よりも腕が高くなるすたいる。こういう弾き方をするピアニストもいると思う。40g。
4.かなり椅子を高くしなければならない。リストとかで轟音を出したいとかいう場合はこういう弾き方もありかも知れない。21.5g。
5.最早椅子は使わずに立ち上がっているのではないかと思う。13.5g。
以上より、指の重みが25g以下というのがいかに無茶な要求であるか分かっていただけると思う。そんなわけで、この本でいうように指の力を抜くだけでキーが戻るというのは嘘であり、そうやってキーが戻ったと感じる人は無意識のうちに指を上げていなければならない。
同音連打はどう弾いたらいいの?
上で示したように指の力を抜いてアップリフトで離鍵するのは現実的ではない。ではどうしたらよいかということだけど、アップリフトよりも素早く指を上げると言うのは本書で示している通り下策である。キーを打鍵した時と真逆のベクトルを指に与えなければならないのでエネルギーの消費が大きく、指を痛めることにも繋がる。
上のグラフで示したように、指の質量が0のときに最も速くキーが戻る。つまり、指がキーの上になければよいのである。これは以前山の魔王の宮殿にてを録音した際にスタッカートの弾き方として説明したことがある。キーを手前側に引っ掻くようにして演奏することで、打鍵後速やかに指がキーの上からいなくなる。すると、指の質量が0のときと同じ速度でキーが戻ろうとする。この演奏法を勧める。
本エントリーで色々とピアノ・脱力奏法ガイドブックについて問題点を指摘したが別に全否定するわけではない。少なくとも一般的な脱力について資するものであると思うし、何よりこの著者は間違いなく僕よりもピアノが上手であるので、それだけの説得力はある。
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