ゴドフスキーがショパンの子守歌の演奏解説をしている。IMSLPに置いてあるのだけど、全文英語なので、和訳してみた。
楽譜はIMSLPを参照してもらうとして、ここでは2~5ページの文章を訳した。一応、楽譜のページに全部纏めたのを上げておく。
ちなみに僕の演奏解説は20100612にあるので比較してみると演奏者による違いが少し見れて面白いかも知れない。
子守歌(BERCEUSE)
生涯概説:フレデリク・フランソワ・ショパン
出生 シェラゾワ・ヴォラ(ワルシャワ郊外) 1809年2月23日*1
死亡 パリ 1849年10月17日
フレデリック・フランソワ・ショパンの父ニコラスはロレーヌ地方ナンシー出身のフランス人であり、母ジュスティナ・クルツィザノウスカはポーランド人である。最初の教師であるアドルベルト・ズウィニはボヘミアのバイオリニストであり、ピアニストであり、作曲家だった。その後、ワルシャワの音楽学校に行きジョセフ・エルスナーに師事した。21歳になる頃にはピアニストとしても、作曲家としても世界中から名声を得ていた。そのスタイルは明確にショパンだけのものであり、新しい作曲法と演奏技法を作り出し後世に多大な影響を与えたと言われている。若い頃はシューベルトやウェーバーといった天才から刺激を受け、アイルランドの作曲家ジョン・フィールドの作曲法に惹きつけられた。しかしすぐに自らの作風を確立したため、それらの影響は多くは見られない。
彼は「形式主義者」という意味では古典派の作曲家ではなかった。彼の形式は一貫していたわけではなかったが、常にバランスの取れたものだった。彼は古典的な形式を新しい和声、装飾で覆った。同年代やそれ以前の作曲家は好んで無意味で入念な装飾で曲を飾りつけていたが、ショパンの手にかかると優美で洗練されたものに変わった。ショパンにとってそれまでにあったチュートン人による和声の慣行は物足りないものであったため、表現を改めた。ワーグナーはこれを短い期間で理解し、新たにより満足する表現法を創った。
ショパンはポーランドの大衆音楽を芸術の域に引き上げた最初の一人である。彼の殆どの曲はポーランドに根ざしているが、ポーランド音楽の形式に追従しているわけではない。彼の精神はその人生と同様にポーランドの外の世界に馴染んでいたため、作曲に際してポーランド風に限定することが許せなかった。
ショパンはパリに住み着き作家や芸術家と同じように受け入れられ、また貴族の家庭にも招かれたりもした。ハンガリー出身のピアニスト、フランツ・リストは彼と友人となり、ハイネは彼を讃え、ジョルジュ・サンド(デュドヴァン婦人)は彼を理想化した。パリでショパンは試練と失望に耐え、勝ち組として謳歌し、人々の悪意に晒され、浪費に苦しみ、40歳で亡くなった。彼はペール・ラ・シェーズ墓地に埋葬され、心臓は祖国ポーランドに持ち帰られてワルシャワの聖十字架教会に収められた。
子守歌は恐らく1845年の夏にノアンにあるジョルジュ・サンドの別荘で書かれた。ショパンはすでに8年連続でこの魅力的な場所で夏休みを過ごし、多くの美しい作品を作った。子守歌はエリゼ・ガヴール嬢に献呈され、その年に出版された。当時35歳のショパンは健康を害しており、サンドとはもはや心が通じ合わなくなっていた。1845年に作曲したソナタニ短調から、彼の精神・肉体の状態がいかに沈み込んでいたかが伺える。
ブラケット(符鉤から逆側に出ている符幹、譜面参照)のA♭は左手の親指で取る。
15~18小節、何度も繰り返すA♭の前の装飾音は主旋律として弾く。この旋律ははっきり明瞭に表現しなければならない。より正確に譜記すると次のようになる。
19小節高音域のA♭のトリルは主音であるA♭から弾き始める。下のFはトリルを始める直前に押さえる。ここに付いている記号” ( “は2つの音をアルペジオのようにして演奏することを示している。19-22小節の上昇と下降によって幻想的なきらめきを孕んだ色彩を表現する。明瞭なアーティキュレーションによって全体的に曖昧さを醸し出し、その上でかすかにデュナーミクを変化させるべきである。
23-26小節は鳥が飛んでいく様子をイメージすることもできる。始めはゆっくり、そして次第に速度を増して飛び去っていく。27小節で初めてピアニシモが登場する。ここでは高音域に於いて広い音程を上下に跳躍し、バイオリンのような湿っぽく儚い音を作る。そして31-32小節で現れる3度目の下降パッセージでは一音ずつ下降するオーケストラのフルートのように歌う。
37小節の右手で繰り返す上声部のA♭は保持音であり、主旋律は1指によるマルカートで表現する。しかし続く小節ではそれまで保持音だった上声部が主旋律に成り代わり、そこに無数の装飾音が連なる。クリントヴォルトは43-44小節を次のように譜記している。
形式と構造について
低音のオスティナートでは、交互に現れるトニックとドミナントセブンスコードとともに2つの保持音から成り立つ。その上にのせる愛らしい旋律はゆっくりと華麗で繊細に変奏する。友人にしたためた手紙で、この作品を「変奏の配置」である言及したことがある。
序奏の2小節の揺れる動きは作品全体を一貫して流れる。ついで3-6小節でシンプルに主題が提示され、7-10小節では内声を加えて主題が繰り返される。そして11-14小節で別の反復へと次第に展開していく。分析する上でこれらの反復を含むフレーズを「第1変奏」と呼ぶことにする。
変奏曲の形式として、このように4小節ごとのグループで分けられているわけではないが、この精緻を極める作品に於いて異なった音型に注目するためには意味あることだと考える。55-58小節においてCを半音下げることによって59-60小節のサブドミナントの三和音へと自然に導かれていくことになる。61-62小節の音型は、56-57小節の上向きの符幹で示した主旋律から形を変えたものだと理解するべきである。従って、このパッセージ全体を通して一体感を作り出すことになる。61-62小節ではD♭のドミナントセブンス、続く6小節はトニック、そして69-70小節の正格終止によって曲は終了する。
演奏解釈
左手は厳密にテンポを保たねばならないが、右手はモデラートの範囲内でのテンポルバートが許される。しかしながら、感傷をそそるような好き勝手なリズムでの演奏は避けるべきである。勿論、どのように演奏したところで死人に口なし、ショパンが厳しく非難することはない。次に示すクリントヴォルトによる左手の演奏法を強くお勧めする。
8小節の括弧と指使いについて簡単に述べると中声部の最後の2音は左手1指、2指で演奏する。下に別の指使いを示す。
13小節の上声部は次のように演奏してもよい。
45小節での右手は、上声部がD♭に止まっている間は下の音をアクセントし、上声部が半音階の下降を始めたらそちらをアクセントする。アクセントは上向きの符幹で示す。
55小節からコーダが始まる。3小節か4小節ごとにトニックとドミナントコードが交代する。そして、この美しい子守歌は途切れることなくディミヌエンドし、静かな夜にいつの間にか消える。
*1 フレデリク・ショパンの出生は1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり)、ゴドフスキーは認識を違えていた。
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