矢作川

 先日、艦これRPGを遊んだ。矢矧をプレイした。
テキトーにDLしてきた矢矧
 艦これRPGではPCは艦娘でありルールブックに掲載されているキャラクターを選ぶという形態となっている。他の多くのRPGと違いキャラクター作成という部分がない。MAGIUSがこんなようなシステムだった気がする。
 TRPGでは普通、セッション開始時にPCの紹介を行う。艦これRPGでは上記のように自分でキャラクターを作らず、キャラクターの設定性格は原作に縛られる面がある。しかし、原作をプレイしていないとこの部分は知らないのでキャラクターの説明が出来ない。勢い、その場でいい加減な設定をでっち上げることになる。これは仕方のないことなので、他のプレイヤーマスターともにそれを許容するだけの度量が欲しいものである。
 それはそうと、この場で僕は矢矧の性格を作り出すために元となった矢作川の歴史を手短に説明して、そこから性格を作り上げた。
 折角なので矢作川についてテキトーに纏めておこうと思う。ちなみに、右岸・左岸というのは下流の方向を見て右側を右岸、左側を左岸と呼ぶ。

字について
 もしかしたら「矢作」という字が読めない人もいるかもしれない。愛知県出身なら「やはぎ」と読むって知ってるけど、別の地域の人はどうなんだろう。しかし、「矢矧」と書かれると読めない。というか「矧」という字自体初めて見た。その場で尋ねてみたら「作」の旧字体だとかいい加減なことを言われた。後日、常用漢字の六体を紐解いてみたところ、「作」に旧字体なんてねえよ、ということがわかった。
 調べてみると、竹に羽をつけて矢を作ることを矢を矧ぐと書くそうな。つまり、用法として「作る」と同じということになる。

矢作川の名前の由来
 周辺で矢を作っていたから矢作川だと人づてに聞いたことがある。ただ、ソースが確定できないので、もしかした流域の小学校の郷土史とかで教えているのかもしれない。
 碧海の歴史(1985)には次のように書かれている。

 碧海台地とその周辺に、原始時代の人びとが残した最古の遺物は有舌尖頭器である。これまでに安城市二本木・石井・篠目・池浦・山崎・福釜・三ノ輪・井杭山・花ノ木の九カ所で20本発見されており、知立市でも上重原・谷田・牛田の各町で発見されている。これは、先土器時代の終末期から縄文時代早期の初頭にかけて使われた遺物で、今からおよそ1万年または数万年前のものといわれる。有舌尖頭器は、槍の穂先につけた打製石器で、二本木で採集されたものは、長さも同類とみられる長さ5センチメートル前後のものが、比較的多く発見されている。
 このような報告は、碧海台地では人間の活動がこのころから活発になったことを示している。有舌尖頭器は、しばしば石鏃とともに発見される。碧海台地に最初に住んだ人びとは、この有舌尖頭器を付けた槍と、石鏃を用いた弓矢を使って、狩りや採集による居住生活を送ったものと考えられる。矢の先につける石鏃は、小さくて相当固いものでなくてはならない。では人びとはこのような石材をどこから、どのようにして手に入れたのであろうか。

この後、長野県和田峠の黒曜石を使っていたんだ、という方向に話が進んでいく。
 有舌尖頭器というのはこんなもの
 碧海台地は「へっかいだいち」「へきかいだいち」「あおみのだいち」「おおみのだいち」などと読むけど、「へっかいだいち」と読むのが主流。矢作川の右岸、西側に広がる安城から刈谷にかけて広がる台地なのだが、台地という言葉から感じられるような高さはなく、矢作川や衣浦と比べたらやや高いかな、という程度でしかない。
 上の引用にある有舌尖頭器が見つかった地域というのは矢作川から5km以上離れてるけど、これくらい離れてても川の名前の由来となってもいいのかなとか、矢作川との間に幾つか川があったりしたりとか、これら遺物が見つかる前から矢作川って呼んでたじゃんとか、色々と疑問が湧く。そんな考古学資料とは関係なく、この辺りで矢を矧いでいたころから矢作川って読んでいたんだろうと思う。名称から昔の事を類推するというのはよくある手法だ。
 古い史料を繙いたりしたけど、ググったら西尾市のサイトに岡島遺跡で鏃が出土とかWikipediaでは矢作橋の周辺にあった矢を作る部民のいた集落に由来しているという件があっさりヒットした。素晴らしいねインターネット。

矢作川の歴史とか
 矢作ダム上流域で、段戸川、名倉川、根羽川、上村川が合流して矢作川となっている。調査の結果、長野県下伊那郡平谷村の大川入山を源とする上村川上流の柳川を源流と特定した。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市西尾市との境で三河湾に注ぐ。
 矢作川の歴史を調べると、1603年に徳川家康の命によりまっすぐ三河湾に流れるよう流路を改変する以前についてはあまり話が出てこない。何もなかったわけではないが、大雨による氾濫で周辺住民が被害を受けるということを繰り返していたらしい。矢作川は上流から大量の土砂を運ぶため、土砂が河床に溜まり天井川化する。それ故に非常に氾濫しやすい川だったのを家康の代で改修して三河湾にまっすぐ流れるようにした。この工事によって、土砂は三河湾に流れ陸地を広げていった。
 碧海の歴史には次のように書かれている

 いまの碧南市一帯がむかし大浜郷といわれていたころ、この地は南に突出した半島であった。そしてこの半島の東を東浦、西の海を西浦と呼んでいた。当時、矢作川幡豆郡の八面山の東を流れ、今の一色町の大字千間にいたって三河湾に注いでいたが、上流から流れ下る土砂がおびただしく、その上川幅がわずか70-90メートルほどで、上流地方に大雨が降ると被害は少なくなかった。
 そこで慶長8年(1603)西尾城主本多康俊は、幕命によって幕府の代官米津新右衛門を奉行として工事を起こし、桜井村の木戸から米津に至る間に、長さ1.3キロメートル、幅30メートルの本流を西南の海に注がせることにした。この工事は慶長9年に竣工した。
 この矢作新川が築かれてから、その勾配が急であったため、矢作川本流の水はけはよくなったが、上流からおびただしい土砂が流れ、そのため、10年ほどのうちに南の入海をすっかり埋め尽くしてしまい、島であった鷲塚もその土砂のため陸続きの半島に変わってしまった。

 矢作川の土砂は次第に下流の海を埋め尽くして、その河口を伸ばしていったので新たに干拓地を作り水田を広げる事ができたのだが、災害年表なんていうものを作れるほどに絶えず水害に悩まされたようである。

矢作川の船運
 矢作川は氾濫→流路変更を繰り返し蛇行していたのだが、新川が開削されたことで流路が安定した。そのため、川船による運送が可能になった。船運は1661年(寛文元)頃から始まり、1912年(大正元)頃まで続けられたそうな。最終的に矢作川がせき止められたりして運行できなくなり、廃止した。

 矢作川を上る荷は鉄、綿、綿実、米、麦、大豆、雑穀、味噌、干鰯、樽、荒物、小間物、塩、干魚、〆粕、鋳物、土管、醤油、酢など。これらは岡崎で陸揚げされるが、塩、干魚、荒物、小間物は更に上流、古鼠、九久平まで引き継がれた。下りは、木材、竹、薪、炭、石材などを運んだという。矢作川の水運によって岡崎は栄えた。
 船の移動速度については矢作川歴史紀行(2000)に次のように書かれている。

 航程は、西尾市中畑町の中畑橋付近から、豊田市平戸橋付近までで、40キロほどであった。上りは帆(5枚帆)を立てて風を利用し、中畑から岡崎までは1日、挙母までは2日を要した。秋から冬にかけての北風の強い季節は、かいでこぎ、岡崎までは3日、挙母までは4~5日かかったという。下りは流れに従い、ろ・かい・さおを利用してかじを取り、1日で下ってしまったという。全盛期には100隻以上の船が航行していたという。
 川岸には、要所要所に荷物を積み降ろしする土場ができていた。矢作川の川岸には20余りの土場があった。土場はその地方の産物の集積地であり、また、必要な物資の受け入れ場所でもあった。

明治用水
 碧海台地では古来から水不足に悩まされ続けていた。各地にある申し訳程度の溜池を利用して何とか水をやりくりしていた。水争いについて、明治用水百年史(1979)に作野池の例が挙げられている。

この溜池は篠目・谷田・八ツ田の三箇村共有の池で、文久3年(1863)には、単なる口約束では収まらず互いに文章でもって固い約定をしている。干ばつの時には、溝ざらえには各村鍬二挺、同時刻でなければ出動してはならないとか、無断で自村以外の溝ざらえを行った場合には以後一切鍬入れを禁止するといった厳しい定めになっていた。農家は、溜池の水だけでは足りないので、各自に井戸を掘り人力で汲み上げて、それぞれの畑に水を入れるのが通例で、そのために要する労力は莫大なものであった。

 当時代官であった都築弥厚は用水路を開削することでこの苦しみから開放されると考え用水路開削計画をぶち上げたけど、色々な反対に会い、結局、資金、体力が尽きて挫折した。
 弥厚が没して半世紀ほど後、明治の治世下で再度この計画が蘇ってきて、今度はうまくいき、明治13年4月に成業式が行われた。この辺り、色々混みあった話もあり登場人物も多いので今回は端折る。後日、明治用水について改めて書くことにしたい。

 結局、明治用水という形で新たな用水路が出来た。その少し後に上流に枝下(しだれ)用水というものが出来た。豊田市内を流れている用水なのでよく知らない。明治用水と水の取り合いをしたらしい。
 明治用水を開削する際に、矢作川下流の住民からは好きなだけ水を持ってって良いという約束を取り付けていた。矢作川下流域では矢作川による恩恵よりも水害の方が大きく、水が少なくなっても構わないという認識だったらしく、その後水不足に悩まされることになる。
 実際に明治用水頭首工の上流と下流で水量がかなり違い、多くの水が明治用水に流れていることが分かる。
頭首工上流

頭首工下流

明治用水 金網が邪魔

 折角写真を撮ってきたけど、イマイチ分かりづらいかな。
 矢作川アローズブリッジ建設現場から見た景色(WebArchive)というのが非常に分かりやすい。東海環状道路の橋脚か何かの工事でクレーンの中から撮ってるとか、そんな感じっぽい。上の頭首工上流の写真に写ってる橋かな。

 頭首工堰は水門が一つだけ開いている。また、写真左端に明治用水が写っている。はっきりしないけど、矢作川明治用水で水量を半々で取り合っているという印象。
 左岸の方に川船や筏の通れるよう切れ目が作ってあったが、明治17年12月に明治用水旧頭首工絵図に書いてあるように閘門を作った。
 こうして、矢作川が堰き止められたことで土砂の流れが止められ、それ以上河口が伸びることはなくなった。当然、砂がたまるので浚渫しなければならなくなった。

矢作ダム
 明治用水に分流したため、頭首工より下流では水害はかなり減ったが、上流では相変わらず結構な水害が起こっていたようで、流量調整を始め多目的ダムを作ることにし1962年より工事に着手し、1970年に完成した。洪水調節、不特定利水、灌漑、上水道供給、工業用水道供給、水力発電の6つを目的としている。

 そんなこんなで今に至る。
 ちなみに、上流にはヤハギンが棲息しているという噂は嘘なので信じないように。

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