日韓国交正常化 第4,5次日韓会談の回顧 沢田廉三氏にきく

 日韓国交正常化交渉の際の沢田廉三回顧録に、5億ドルの経済支援について、5億ドルとなった根拠が書いてあった。曰く、「大蔵省と相談したのではなく、ヴィエトナムとかビルマ、タイなどに日本が出した金額から見て、そのくらいあればなんとか話ができるのじやないかと考えて」とのことである。実にいい加減なものである。
 折角なので当該部分と合わせてテキスト化しておいた。

 読めば読むほど、朝鮮人はやっぱり朝鮮人だなあと感じる。また、沢田氏の朝鮮人に対する認識は現代の感覚からしてあまりに楽観的で、よくこんな奴に首席代表を任せたものだと思う。脱亜論を読んでいないのだろう。もしかしたら日韓併合時の朝鮮人は他の時代に比べて特別におとなしかったのかもしれない。それで、沢田氏は朝鮮人の性質を見誤っていたのかもしれない。竹林はるか遠くあたりを読めば朝鮮人がどういうものか分かるというものだけど、沢田氏は当時を生きていながらそういった現実を目にする機会がなかったのだろう。
 それにしても、朝鮮に対してこれほど甘い態度を取る沢田氏でさえ公職追放を受けたということだから、戦後の社会がどれほど偏った思想で動くことになったか推して知るべしである。
 いろいろツッコミどころの多い文章だけど、これ以上私見を挟むことは止めて、あとは文面を上げるだけとする。
 原文は日韓会談・全面公開を求める会のページからダウンロードできるが、xdwというゼロックス用のデータ形式であり、開くのが少しめんどくさいのでPDFに変換したものを置いておく。
 第4,5次日韓会談の回顧 沢田廉三氏にきく 2015-00518-0003-IMG.pdf

昭和45年7月

第4,5次日韓会談の回顧
―沢田廉造氏にきく―
(きく人 西山事務官)

アジア局東北アジア
日韓国交正常化交渉史編纂委員会
(編纂委員会注)
 本校は、昭和45年6月15日午前11時~午後1時、ホテル・ニューオータニにおける談話筆記である。
 沢田廉三氏は、第4次日韓会談(昭和33年4月~35年4月)、第5次日韓会談(35年10月~36年5月)の日本側首席代表であつた。
 きく人西山事務官は北東アジア課主席事務官である。
目次 頁
1. 因幡の白兎は韓国人漁夫説………………1
2. 韓国首席代表林炳稷氏とは親しい仲…… 4
3. 文科委員会名と韓国主張……………… 10
4. 基本関係の樹立を念願としながら……… 12
5. 許政・兪鎮午・柳泰夏氏の印象………… 14
6. 請求権5億ドルの数字…………………… 17
7. 最も困難な時期に…………………………18
8. アメリカからのプレッシャーはなかった……20
9. 対韓交渉の印象……………………………22
10. 朝鮮半島全体に対する考え方……………24

資料
1. 第4次日韓全面会談本会議第1回会合における沢田首席代表の挨拶…………26
2. 第4次日韓全面会談本会議第1回会合における林炳稷韓国首席代表挨拶……29
1. 因幡の白兎は韓国人漁夫説
西山: 第4次日韓全面会談の首席代表になられましたのは、韓国となにか特別の関係がおありだつたからですか。
沢田: 全然ない。昭和11年10月~13年4月満州国大使館の参事官時代に朝鮮を通るごとに朝鮮内を視察して知つてはいたが・・・。私は石井光次郎さんをよく知つていた関係で、石井さんが沢田を何かに使つてやろうというつもりで岸さん(当時首相)に話されたのかもしれないと思つている。ただ私は当時、記者会見などで「韓国と交渉に当たるような因縁があるのですか」という質問を受けたときに、こういつたことを覚えている。「諸君は古事記にある稲葉の白兎の話を知つているか。あれは私に言わせれば、韓国の漁夫が潮流に流されて隠岐の国に漂流して白衣悄然と砂浜に立つていた。そのとき因幡の国の末恒(鳥取市西方の湖山池の北、付近に「白兎」の地名が残る。)の漁師が船をこいできて隠岐に立ち寄つたので、韓国の漁夫が因幡の陸まで送つてほしいと頼んだ。漁師たちは韓国の漁夫を末恒に上陸させて、「渡し賃を払え」というと、韓国の漁夫は「そんなものはない」と居直つたので、漁師たちは櫓櫂で打擲し、韓国の漁夫は痛みにたえかねて浜辺に転々と転んでいた。そこに平和の神の大国主命が来て訳を聞き、出湯があるからそれにつかつて葦の葉の上に寝ていれば必ず傷は癒えるといつた。これはまさに韓国人を大国主命が助けた話で、因幡の国と韓国とはこのときから関係があつたわけである。私は鳥取県の出身であるから、私が韓国問題に関係するのは少しも不思議はないじやないか」と。これが松本穣葉子著「ふるさとの民謡」(昭和43年9月、鳥取強度文化研究会発行)に「沢田の白兎伝説異聞」として出ている。
西山: それは大使がお考えになられた誤解釈ですね。
沢田: そうだ。沢田説だ。
西山: あの頃、日本人漁夫が李ラインで韓国につかまつていて抑留漁夫釈放が大問題になつており、鳥取県の漁夫も抑留されていたので、大使はそういうのをごらんになつていて、ひとつ自分がこれを解決してやろうとお感じになったmotiveがありますか。
沢田: 別にそういう動機もなかつた。
西山: 外務省の記録の中には、33年4月18日付で第4次会談のときの訓令の第2次案がありますが、訓令はお受けになりましたか。
沢田: 大臣から訓令をもらつた記憶がない。石井さんとは親しくてよく韓国問題なども話をしたが、岸さんや藤山さんに会つても、「あなたはよく分かつているのだからよろしく頼みます」というようなことだつたのじやないかと思う。
2. 韓国首席代表林炳稷氏とは親しい仲
西山: 日韓会談の首席代表をお引き受けになられたときは、交渉を妥結できるという見通しをお持ちでしたか。
沢田: 私は国連に日本代表の対しとして在任していた関係があつて広く諸外国の人たちと付き合う習慣になつていたために、韓国との間のことだけを考えていなかつたが、日韓会談の韓国側首席代表として林炳稷氏が来ると聞いて驚いた。いい人が来ると思つた。この人はかつてアメリカで李承晩が独立運動をしているとき秘書を務めた関係もあり、李承晩大統領の信任があつて昭和23年12月~26年4月外務部長官をつとめ、その後ずつと在国連大使で、私が国連にいたときにお互いに肩をたたいて話しあう間柄であつた。Curnel, Ben C. Limbというクリスチャンネームでよんでいた。とに角あの人が来れば話のいと口は作れるという感じがした。

 (注) 沢田大使は昭和28年3月~30年8月在国連大使、31年12月~32年3月第11総会の日本代表であり、林炳稷氏は26年4月~33年2月在国連大使であつた。

 だから私は第4次会談の第1回本会議(昭和33年4月15日)での挨拶で、極東の日本、極東の韓国としてでなく、世界の日本、世界の韓国として相携えて立ち上がるところまで行こうじゃないか、お互いに国連にいたようなつもりで話し合えば、話し合えないことはないではないかと述べることにした。私はかつて李承晩を世話したドクター・ウエルスが林氏との間に往復した手紙をニュー・ヨークの友人に見せてもらつたことがあるが、林氏もただ日本と韓国との関係ということだけでなく、広い国際関係の視野をもつている人であることを知つていたので、この私の気持は林氏に通ずると思つたから、林氏を会談の開かれる前日に羽田に迎えたときにこの挨拶文の写を手渡した。彼自身はびつくりしたような顔をしていたが……。(資料1)
 開会式での林氏の挨拶は、それに答え得るものではなかつた。日本統治中にいじめられたコンプレックスからか、今、読んでみても「この階段が正義、平等、誠実の諸原則に貫かれるべきであると信じます」「双方が正義、平等、および誠実の諸原則を尊重することこそより重要なことであります」「ここで直ちに正義、平等、誠実の減速の適用を始めようではありませんか」と3回も同じ言葉が出ている。国連の精神に従つて移行じやないか、という私の挨拶とは非常な距たりがあるが、これはおそらく林氏自身の考えではなく、向こうの代表団で作つたものを読んだに過ぎないと思う。それにもかかわらず、私はこの階段はまとめなければいけないし、またできるものだという感じをはじめからもつていた。(資料2)
西山: 韓国側が何回も繰り返した正義、平等、誠実というのは具体的にはどのようなことを考えていたのでしようか。
沢田: やはり統治時代に抑えられたことに対して、これからは平等な建前でやつていこうということだつたと思う。
西山: 交渉の内容で構成、平等の建前から韓国がぜひ貫きたいというのは、どんな点ですか。
沢田: たとえば、こちらに持つてきていた韓国文化財の問題など……日本が引渡した106点の文化財(昭和33年4月16日に引渡す)は韓国ではずいぶんつまらないものと考えていた。あんなものでごまかされないといつていた。日本が韓国から多くの文化財を持つて行つたのだから、それを全部返してよこすのは当たり前じやないかという考えだつた。その他のものも日本は我々を抑えてもつて行き、それをネコババを決めているという考え方で、それを返せ返せと牙をむき立てていつているという格好だつた。
西山: 文化財問題は非常に御印象に残る問題ですか。
沢田: そうだね。博物館などのリストに出ているもののみならず、日本側が個人として韓国から買つてきたものも調べて、返してもらわねば困るといつていた。その点からいうと、一昨年私が訪韓したときに、韓国の気持ちも変わつたな、そんなにこだわらなくなつたなというきがした。いまだに歩調の遅れたところはあるが、今の話のように、ことごとにつつかかつてくることがなくなりつつあるように思つた。

 (注) 33年11月の「対韓交渉方針決定に関する件」の中に、文化財についての韓国側の強い要求ぶりを述べている。
3. 分科委員会名と韓国の主張
西山: 第4次日韓会談での分科議員会の名称が韓国請求権委員会とか漁業及び「平和ライン」委員会などときめられ、韓国の主張どおりになったという非難が当時の日本国会でありました。これについて首席代表としてどういうな考えでしたか。

 (注) 第4次日韓会談の議題については、昭和32年12月31日に日韓間で合意された議事録で定められており、それに基づき、33年5月6日の本会議第6回会合で下記の分科委員会を設けるととを決定した。
1. 基本関係委員会
2. 韓国請求権委員会(a.請求権小議員会、b.船舶小会員会)
3. 漁業及び「平和ライン」委員会
4. 在日韓人の法的地位に関する誕員会

沢田: 今の話の点は先方の主張を大はばに入れてきまつたのだが、それにきめても、こちらの言い分はどこかに合流しまとめ得るという感じをもつていた。それなら韓国のいうおりにしてやつたらいいじやないかというつもりだつた。
 今度、日本に万国博覧会が来ることが決定された時に、標語は「人類の調和と進歩」とするととが万国博参加議国全体の意思としてきめたことであつた。それが、日本では「進歩と調和」 と逆になつてしまつた。日本流にいえば、「調和と進歩」でも「進歩と調和j でもどつちでもいいじゃないかという簡単な考えだつたと思うが、進歩を先にもつてくると競争になる、優劣を争う、強いものが勝ち、弱いものが負ける。調和というのは未開発国でも文明国でもどこの国でもとに角調和するととで、ハーモニーを保ってその調和した力でもって進歩して行きなさいと進歩の方があとになるべきである。進歩が先になってはエコノミック・アニマルになってしまう。だから、韓国側のいうとおりにしたのは調和を先にするという意味だったんだ。
4. 基本関係の樹立を念願としながら
沢田: 私は委員会のうちの基本関係会員会を一番先に手がけたいと思つていた。会談では他の委員会はすべてこれを開いて、問題の討議を試みたが、基本関係委員会だけは一度も出いたことがなかつた。その理由は、他の委員会の課題となっている懸案が悉く妥結に達した時、初めて基本関係問題に着手するという了解があつたからである。これは私が会談を引受げる前にすでに両国間に合意成立していたため、会談中どうしてもそこに近づけなかつた。
西山: 問うの心理としては、基本関係を先に決めてしまうと、他の案件についてはうまいことやられてしまうんじやないかという心配があつたわけですか。
沢田: それがあつた。しかし、常に私は、私のいう基本関係を早くうち立てれば、そのほかの問題は普通の外交問題として処理できるではないか、そこへ早くもつていきたいと林炳稷氏にも柳泰夏氏にも話していた。当時、東京倶楽部(霞が関3-2)の建物は戦災を受けてみじめなあばらやだつた。韓国側の代表と外務省の内で会うと報道関係にすぐかぎつけられるが、東京倶楽部なら目立たないので、しよつ中そこに林炳稷氏や柳泰夏氏をよんで会つていた。そして「おやじさんに話してくれよ」と裏からいつて、それが私の希望したほど通じたかどうかわからないが、何かそこに道があるような気がして、会議の間、始終、そこにへばりついていたわけだ。
 私が第4次会談の開会の際の検拶の中で述べたように、林大使に国連時代の風潮、傾向を想起してもらい、日韓対等の建前の上に話を進め、会談中に一日も早く基本関係の樹立までもつて行こうと努力したのであるが、私のこの意図は、韓国の内政上かつての日本統治に対する反発またはコンプレックスのぼとぼり消えぬ李承晩大統領時代の気分とまだまだ距たりが多かった。第4次会談の開会の際の林大使の挨拶の中で正義、平等、誠実の同文句を三度もぐり返し述べているように、この思想の距たりが会談に数年を費しても実りをみなかつた最大原因と思われる。
5. 許政・兪鎮午・柳泰夏氏の印象
西山: 大使は、会談期間中、本会議とは別に、林炳稷氏と26回、許政氏と2回、兪鎮午氏と14回、柳泰夏氏と19回非公式会談をしておられますが、そのときの用語は何でしたか。
沢田: 林氏、 許政氏とは英語、兪氏とは日本語で話した。
西山: その人たちにはどのような印象をお持ちですか。
沢田: 林氏のことは先に述べたが、許政氏は立派な政治家で、これも大きなところがわかる人だつた。当時、代表団の一員だつた李澔氏もわれわれと話の合う人だつた。兪鎮午氏は学者で話がよく通ずる人だつた。不幸にして政界に入つてしまい、本堂でないところを歩いているように思うが、立派な人だつた。
西山: 柳泰夏氏は?
沢田: よく尽力してくれたように思う。李承晩大統領を「おやじが」、「おやじが」といつて、ことごとこう「おやじに話してきます」といつて韓国によく帰つていた。許政氏や兪鎮午氏とは肌合いの違う人で李承晩大統領を動かすのには頼みやすい人だと思つていた。
 34年7月に、在日朝鮮人北朝鮮帰還で会談の行きづまり状態のときに、柳泰夏氏が釜山抑留日本人漁夫と大村収容韓国人の相互相関を出来るだけ早く実行したいと考えて会談の無条件再開を計つたがあのときなど柳氏が韓国に帰つておやじさんを問いた結果じやないかと思う。
6. 請求権5億ドルの数字
西山: 請求権問題解決のために日本側からどれくらいの金額を出せば解決できるとお考えでしたか。それに関連して両代表者間で話をされたことがありますか。
沢田: 兪鎮午氏と5億ドルという話をして「その位で何か考えんか」といったことがある。兪氏は「わかりませんね」といつていた。5億ドルの根拠は、大蔵省と相談したのではなく、ヴィエトナムとかビルマ、タイなどに日本が出した金額から見て、そのくらいあればなんとか話ができるのじやないかと考えていつたのだが、、、、。「考えましよう」ともいわなかつた。
西山: そうしますと、そういう具体的な数字まで詰める段階にいつていなかつたということですね。
沢田: いつていない。
西山: 結果的には、そのとおりになつたわけですね。
7. 最も困難な時期に
西山: 大使が会談の首席代表をしておられた期間は日韓問題が大揺れに揺れた時期で、韓国では李承晩が倒れ、その1年後に軍事政権が出現した激動の時期だし、日本では、今日まであとをひいているのですが、例の北鮮帰還の途が開けたということがあつて、首席代表をしておられて本当に大変なことだつたのではないかと想像するのです。そういう問題の時期に重要な役割を果たされた、そういう観点から会談の全体的な御印象はいかがですか、
沢田: 私自身は、ただまとめるというその方ばかりに頭が向いていた。
西山: その間、大使はまとまるだろうというお考えをお持ちだつたですか。
沢田: まとまるというより「まとめたい」という気持ちが強かつた。だから苦労もなかつた。
西山: この当時、李承晩が本気でやろういう気があつたのかどうかについては、どうお考えですか。
沢田: 日本統治時代にいじめつけられていた時のことを考えると、心から日本と一緒になつてというところまできていたかどうかは非常に疑わしい。
西山: 基本的にアメリカに対する関係から日本と仲良くやつているということを、少なくともゼスチャーとして韓国政府は示さなければならない。しあkし根底の気持ちはなかなかその気になつていなかつたのではないでしようか。
沢田: それはわからない。
西山: 第4次会談(李承晩政権時代)のときの空気は第4次会談(張勉政権時代)になつて非常に変つたという印象をお持ちでしたか。
沢田: とくに変つたように感じなかつた。むしろ李承晩が変つても政治的な意味で反対に行くようになつたのではないかという気がした。いい方に変つたとは思えなかつた。

 (注)昭和36年2月3日、韓国民議院では「①制限国交から漸進的に全面国交に進める、②平和線を尊重、守護する、③正式国交は重要懸案の解決後とする、④現行貿易以外の経済強調は国家統制のもとに国内産業の侵されない範囲に行う」趣旨の対日関係決議を行つたことなどで、張勉政権も対日外交を積極的に進めることが困難であつた。
8. アメリカからのプレッシャーはなかつた
西山: 交渉期間中にアメリカ側からぜひまとめるようにという干渉めいたことを聞かれたことがありますか。
沢田: アメリカからのプレッシャーはなかつたと思う。
西山: この時点で日本が一生懸命やろうとした基本的な動機はなんですか。実際問題として漁夫がつかまるし、隣国なのにその間に何もないので不便なことが起こるので何とかしたいという、そういうことなのでしようか。
沢田: そおういうことだ。とに角、身のまわりのことにつられていたということだ。far-reachingな見かたからしてという政策ではなかつたような気がする。
西山: この当時はアメリカの対韓援助が非常に増え、その資金を使つて日本からも韓国に輸出したりすれば非常によかつたという点もあると思うのです。業界も国交があればいろいろ便利だし、こういう関係から日韓会談をまとめることに圧力があつたということもございませんか。
沢田: 感じなかつた。
9. 対韓交渉の印象
西山: 大使の長い外交官生活を通じてこの3年余りの韓国との外交交渉にどのような印象をお餅でしようか。
沢田: とにかく難しかつた。ひと筋縄ではいかぬ、われわれの考え方ではいかんということだ。いろんな要素をそこにつけて考えなくてはいけないということだ。これは考え方によつては、お互いに共通して考えうる部面も多いと思うけれども、それだけに他の国との関係よりも、もつと複雑に考えなければならぬという要素もあると思う。
 われわれは東洋との外交においては、同文同種の国民であつても外国との話し合いよりも別に考えなくてはならない要素をもつている。例えば、ヴィエトナムに対して日本はダニムダムを作つたが、これはほかの国ではちよつとできないことだ。ということはヴィエトナム人いきいても、アメリカ人は自動車でやつて来て仕事をいいつけて帰つてしまう、日本のダニムダムを作つた久保田豊氏は自分がゲートルをつけて住民と一緒にモッコをかついだ、これがダニムダムのできたゆえんだという。私がダニムダムへ行つた時小さな子供までが私の足にまつわりついて「ムッシュクボタがこれを作つた」といつていたが、こういうわらじをはいて現地民と一緒にモッコをかつぐようなことは東洋人でなければできないことだ。そこに韓国に対しても台湾に対しても日本が考えなければいけない共通の点がある。日本がアメリカ流に考え出したと思われたら仕事はできないと思う。これからの東南アジアに対する経済援助についても、金をやりさえすればいいというものではなく、その部分だけ日本が余計に考えなくてはいけない。韓国に対しても、この頃は大変よくなりつつあるが、やはりわれわれには、まだ統治時代の上から臨んだ頭が残つているところがあると思う。それがとれなければいけない。
10. 朝鮮半島全体に対する考え方
西山: 北朝鮮を含めて今後の朝鮮半島全体に対する日本の外交政策はどうあるべきだと思われますか。
沢田: それは容易に彼らを説くことはできないし、彼らからの盛り上る時を待つべきであるが、やはり南北が一緒になるように日本がいつか中に入つて行かなければいけない時が来ると思う。
 中共に対してもそうだ。松村さんや古井さんが北京に行つてやることも必要だが、台湾に近いわれわれと、中共に近い古井さんとが、中共と台湾を一緒にするととろまでを考えてもつて行くべきである。私は一昨年、日華協力委員会で、蔣介石総統によばれた時に何で もいってくれといわれたので、「そういわれるのなら面をおかしていうが」といつて、「中国は『大陸光復』をスローガンにしながら、終戦後20余年かかって未だに海峡は渡れない、それには軍事だけではいかない、思想攻勢でいくべきで、それはあなたのおやじさんの孫文三民主義で行くべきだ、共産主義者は耳を傾けないかもしれないが、これは本土に起こつた思想である」といったところ、蔣介石総統は「やりようによってはそうですね」 といわれた。昨年秋また台湾に行つてみると、町の標語は『実行三民主義』と出ている。それをみて私は蔣介石総統の頭の柔軟性を思った。北京を認めろというのではなく、あの二つをまとめることに日本が出て行くべきで はないか。
資料1

第4次日韓全面会談本会議第1回会合における沢田首席代表の挨拶
   昭和33年4月15日
閣下並びに各位
 本日、日韓全面会談の開会に 当り、ここに日本国政府を代表して大韓民国代表団に歓迎の辞を申しのべますことは私の最も光栄かつ欣快といたすところであります。
 また、国際連合における私のかつての同僚であり、かつ大韓民国の卓越した外交官として私の尊敬おく能わざる林閣下と、この席上でな会いいたしますととは、私の重ねて喜びといたすところであります。
 今日、世界は恐怖と不信に満ちております。人類史上、如何なる時代においても、今日ほど、世界平和と安全を確保する必要が痛感されたことはありません。この目的を達成するためには、大小を関わずすべての国家が力を合せることが必要であります。
 日本国と大韓民国は親密なる隣人であります。今や両国が兄弟として、互い比肩をならべて、恒久平和への途を前進すべき時は熟しているのであります。昨年国際連合総会政治委員会の会合におきましては、たまたま余人ならぬ私が日本国代表でありましたが、林大使は、その時私が「われわれは、大韓民国の代表が国際連合においてわれわれと席を並べることが出来る日のくることを衷心から期待するものである」と明言したことを想起されるでありましょう。私は、このように述べることにより、韓国と日本国とが出力を涵養して極東の韓国、極東の日本国から、世界の韓国、世界の日本国へと速かに成長し、かつ、両国が世界与論の舞台にないで相携えて起ち上るようにとの熱望を表明した次第であります。
 かかる希望が実現するためには、日韓関係の正常化が、必須条件として要求されることは申すまでもありまぜん。不幸にしてかかる目的をもって、両国間に開かれた過去3回にわたる全面会談は成功いたしませんでしたが、この度会談が再開の選びとなりましたことはまことに御同慶に耐えない次第であります。
 過去の意見の相違を調整して、解決をもたらすために、一層の努力をいたしますことは両国政府に課せられた義務であります。私は両国間には友好的解決が不可能な問題は何もないと考えてなります。私は、この任務が極めて困難なことはよく承知いたしておりますが、われわれが互譲互協の精神をもつて交渉に当るならば必ずや成就できるものと確信しております。私は、林閣下も私と同じお考えであると固く信ずるものであります。
 終りに臨み、私は、このように立派な代表団を派遣されました大韓民国政府に対し深甚なる謝意を表しますとともに、重ねて、関下並びに各位に対し、衷心から歓迎の意を表する次第であります。
資料2

第4次日韓全面会談本会議
第1回会合における林炳稷・韓国首席代表挨拶
   昭和33年4月15日
 この儀礼的会合に韓国政府を代表することができをして光栄の至りです。わが代表団は韓日両国の期待する成果を実現するつもりで参りました。この実現のため沢田大使とともに働くことのできるのは誠に幸いです。沢田大使と私は既に国連でともに働いたことがあり ます。
 今日のとの儀礼的会合は明らかに具体的問題の討議の場ではありません。しかしながら韓国政府はこの会談が正義、平等および誠実の諸原則に貫かれるべきであると信じます。わが方が全面的に誠実であることは既に多〈の機会に示されており、日本側にも同じことを期待する次第であります。
 われわれの間には多くの問題があります。最近の両国関係は多くの困難にみちています。しかしながらその大部分は、誠実に取扱われれば解決できるものであります。韓国政府の見解によればこの会談の意義は両国間の懸案を解決するにとどまりません。両国間の友好関係は重要であります。しかし双万が正義、平等、および誠実の諸原則を尊重することこそより重要なことであります。
 韓国はこれらの減速の遵守を誓うものであります。韓国は常に他のすべての友好諸国との関係においてもこれらの原則を強調してきました。日本も同様にこれらの原則を尊重するならば、会談の成功は間違いありません。われわれはただ一つの目標しかありません。それはこれらの原則に基礎をおく、強く結束した自由世界の建設であります。
 われわれの最大の望みは韓日両国が本会議でこれらの原則の適用について世界に範を垂れることであります。これは意義深い機会であります。それにふさわしく行動したいと思います。ここで直ちに正義、平等、誠実の原則の適用を始めようではありませんか。


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