ノクターン20番 ナショナルエディションの解説文

 以前、ノクターン20番、レント・コン・グラン・エスプレッシオーネを演奏したときにナショナルエディションの解説文を和訳した。折角なので公開するつもりだったのだけど、その前に英語の得意な人に僕の和訳が適切かどうかを見てもらおうとしたところ、音楽用語が分からんとか、実はそんなに英語が得意でもないとかいう人ばかりで全く役に立たなかった。そんなことをしている内に時間が経ってしまったというわけである。
 ナショナルエディションの和訳をする予定だった河合優子放射能怖いって言ってワルシャワに引き篭もったままで進捗が見えないし、ツイッターフェイスブックでも何かしらの活動をしている様子はあるけど和訳に手を付けている感じはしない。放射能の恐怖を克服するには物理を勉強するのが一番なんだけど、まあどうしようもないね。
 以前、ナショナルエディションには岡部玲子による解説文の和訳が付いていたらしい[1]けど、どういうわけか今は付いていない。
 そんなわけで、ネット上にナショナルエディションの和訳が転がっていないかとテキトーに探したけど、見つからないので僕が訳したものを置いておく。

演奏に関する解説

 ペダリングは後期版にだけ書き込んであるが、両方のバージョンに適用できる。
 装飾音の付いていないトリルは主音から始めるべきである。
初稿譜

p.29
 11小節右手:装飾音はトリルの開始音を補助的に示したものである。これは左手のGisと同時に弾き始めるべきである。

p.31
 56小節右手:次のようにトリルを始める:

 cisは左手のgisと同時に弾き始める。
後期版

p.32
 11,56小節右手:トリルの装飾音の弾き始めは初稿譜の解説で示したように行う。


原資料に関する解説

Lento con gran espressione in C sharp minor, WN 37

 このショパンの特殊な曲の中間の辺りにはショパンの思い出がいっぱいに詰まっている。協奏曲2番f moll Op.21では第1,第2楽章から各1つ、第3楽章から2つの断片を引用しており、また、歌曲「祈り」からも持ってきている。この曲は1830年にウィーンで書かれたのだが2種類のバージョンがある。それぞれ、上記引用部分の扱いが次のように異なっている。
オリジナルバージョン 彼自身が書いたに違いない。右手では断片を引用している間は元の3/4拍子を維持し続け、伴奏では4/4拍子のままである。ショパン以外にこんな複拍子を作るような奴はいない。
後期版 これは彼の姉のルドヴィカに送られた。数年後、彼女はフレデリクの恋人のマリア・ヴォジンスカから送られたとアルバムに書き込んだ。ショパンは引用部分を全体の2拍子に繋げ、適当に補っている。ショパンが複拍子を止めたのは実際に演奏する上で次のような問題があったためだと思われる。ショパン自身はルバートの達人であり、左右の手でリズムが乖離していようと全く問題なく弾けたが、ルドヴィカのような素人ピアノ弾きには難しすぎた。
 この2つのバージョンには以下のような心理的な違いがあるようだが、深くは考えずに別物として両者を掲載することにした。
・初稿譜には作曲者の郷愁、家族や友人と離れた悲しみ、思い出が込められている。独特のリズムには故郷での喜びと幸運が生きている。
・第2版はショパンの気分が反映され、悲しい話が思い出に寄って輝いて見えるようになってきた。
 この編集は文学の真似事をしたいわけではなく、ただ作品の周辺状況を関係づけて示すことだけを目的としている。
原資料
A1 自筆譜下書き(ヴァルデモッサにあるBoutroux de Ferraコレクション)。21~22、25~26、30~32小節のショパン独特の複拍子が特徴的である(右手3/4拍子2小説が左手4/4拍子1小節の長さとなる)。
[A2] ショパンがウィーンから姉のルドヴィカに送ったが、その後紛失した自筆譜。この版ではA1では複拍子で表記されている部分がきっちりしたリズムに改められている。
IJ ルドヴィカが1854年に編集した「ショパンによる36の非公式作品集」の冒頭6小節。リズムの間違いを含む[A2]から複写し、原典の情報(本編p.11の引用文献参照)を含んでいる。
CJ ルドヴィカによる[A2]の複写。[A2]は後日アルバムに入れてマリア・ヴォジンスカに送った。CJにある添削のいくら家はショパンによって為されたと見られる。
CK ロシア国立図書館サンクトペテルブルク)所蔵のOskar Kolbergによる複製。少なくとも2つ以上は存在している。[A2]のうちの1つ。これが自筆原稿から直接写したのか、最初のコピーなのかどうかを明言することは難しい。少しの間違いや、恐らく後から追加されたであろう書き込みがある。
CB CKあるいはワルシャワ音楽協会所蔵のKolbergによる別の複製からバラキレフによって複製された。スラーリングや指使いといった小さな変更点がある。
EL Marceli Antoni Szulcによる初版「3つのマズルカアダージョ」(Leitgeber社、ポズナン1875)。ELは失われたCKのコピーを基本としているが、さらに変更と追加がなされている。これらの内で最も重要なことは先の解説文でも議論したが、多くの後期版でこれが複製されてしまっていることである。
編集原則
 A1、[A2]どちらの原稿も伝えることにした。[A2]の原稿はCJとCKを見比べて複写した。
 A1のスラーリングはひどく断片化しており、また不正確である。僅かな追記のある[A2]についても同様のことがいえる。スラーの範囲を断定するのはとても難しい場合がある。それらはしばしば楽節の中間部分や開始部分だけを含んでいる。スラーはときどき単一の恩恵や小節をまたいで現れるので、伴奏の8分音符などよく似た音型から類推する。これらの重要性について無理解の謗りを避けるためにいくらかの加筆を行った。
初稿譜

p.29
 1小節:A1では全体を通して2/2拍子であるが、頻繁に4/4拍子へと変更している。CJ、CKも4/4拍子である。したがってショパンは最終的には4/4拍子にしたかったのだと思われる。今日、私達がこの曲を練習し始める時に目にするのは4/4拍子である。
 1,3小節左手:主要譜表はA1によるものである。バリエーションは[A2](→CJ、CK)による明らかな改良点である。2→3小節 の以降に際して平行調への転調を避けた。編集者の意見では、これらはもう1つのエディションの影響によるものではない。また、この初稿譜にこの2音を加えることに成功している。
 3~4小節右手:A1ではCis音にタイで繋いでいない。これは1~2小節との対比による意図的な変更かもしれないが、ただ見落としただけの可能性が高い。[A2](→CJ、CK)では3~4小説は1~2小節の繰り返しと記されている。
 18小節右手:2拍目の8分音符1つと16分音符4つは連符の表記のない不完全なものであるか、あるいは32分音符にするつもりだったものの連桁を書き損じて16分音符になってしまったものである。この2者のどちらがより妥当であるかを論じるのは畢竟時間の無駄であり、考えて結論の出る問題でもなく、両者に大した違いもないので本稿を編集するに当たっては前者を採用した。

p.30
 26小節左手:A1では7つ目の8分音符がb音になっている。この音はショパンが添削の際に見落とした唯一の音である。[A2](→CJ、CK)ではa音に訂正されている。この変更は次の小節に自然に繋げるためにはごく真っ当である。また、右手も次のように異なっている:

 32小節右手:A1では右手の2つ目の音はDisとなっている。歌曲「祈り」の旋律と類似性がここで示される。[A2](→CJ、CK)では作者の間違いが明らかになる。恐らくショパンは続く小節でオクターブを移動する音を心のなかで鳴らしていたのだろう。

p.31
 48小節右手:ショパンは3拍子2音目の16分音符をCisisと表記している。私たちはこれをDとした。Fis mollに店長することを考えればDとした方がきれいに収まるし、15小節はDとなっていることに気づけばショパンだって全く同様の修正をするに違いない。
後期版

p.32
 1小節:ppの支持はCK。A1にあるが、CJには写譜の際に見落としたため書かれていない。
 3~4小節:CJ、CKでは1~2小節の繰り返しが表記されている。
 7小節右手:ELでは編集者の独断でCis音がタイで繋げられている。
 8小節左手:CKとELは1番目と5番目の8分音符を間違えてdisと表記している。また、A1とCJも疑わしく、唯一信頼に足る史料である[A2]だけがfisと表記している。
 13小節左手:主要譜表の部分はCJから、バリアントの部分はCKから選んでいる。
 13~14、48~60小節左手:gisとfisにつけた4分音符の符幹はA1に倣って括弧で括った。
 18小節右手:2拍子のリズムについては初稿譜の方の同項を参照のこと。

p.33
 21~24小節:CJとCKではこの区間にある6つのナチュラルが全て欠けており、本来dであるべきところがdisに変わっている。これはショパンの編集を見落としたためであることはA1でのこの部分の描き方によって証明されている。
 24小節左手:CKとELでは7番目の8分音符を誤ってeと記譜している。
 26小節左手:ELでのこの部分の音程はショパンによって手の加えられているA1のオリジナルと同じである(初稿譜の同項を参照のこと)。この編集者はこの原稿を見ており、そのため22小節から類推して疑いなくこの改変を採用した。
 28小節左手:CJとCKでは8分音符4つのグループ2つに対してそれぞれ繰り返しの記号(/)を付けている。ショパンに25小節の音型を繰り返そうという意図はあったが、2回めだけを繰り返そうとしたわけではない。それはA1において25小節全体に渡って繰り返し記号で修正していることからも分かる。
 30小節:ppと表記しているのはCKだけである。
 32小節右手:この部分はCKを採用した。CJはこの2つにぶった切られた小節全体においてリズムの表記を多く間違えている。例えば以下のように不正確に写譜している:

 2拍目の付点8分音符と16分音符はA1での3/4小節にある2つの4分音符と一致する。30~31小節もこれと似ており、ショパンは付点のリズムではなく4分音符とした。しかし、8分音符にしたほうがオリジナルのリズムですんなりと通すことができる。したがってCKで8分音符としたものがより好ましいと思った。
 小節後半は複拍子として次のように読むことができる。右手が2つの4分音符を弾き、同時に左手は3つの音を弾く。このタイプの複拍子はA1の初稿譜に見られるが、ショパンは規則正しいリズムになるよう[A2]で単純に書き換えた。したがって彼は何の痕跡も残さず、ここでの方針と正反対の改変を行ったことになる。
 35~36,39~40小節:CKでは32~33小節の最後の2音を繰り返す形で舌のように音を増やしている:

 Korbergが次のような下らない疑いを挟んで顰蹙を買っている。
A1やCJのような信頼に足る資料にはこの音は存在しない。
・これらはCBにもない。ということはCKにも後から追加されたのか、Kolbergがバラキレフのところから写譜したときに書き損じたか。どちらの場合も[A2]には存在しないことになる。
A1と[A2](→CJ、CK)においてショパンは符幹の向きと休符によって左右どちらの手で引くのかを明確に示している。このことから、付加された音は演奏不可能である。
 Korbergは別のコピーを準備したとき、ELを元の資料として使うつもりでdisの2分音符まで広げた彼の追加を修正した。また、39~40小節では増やした音を1オクターブ下げている。

p.34
 48小節右手:ELでは15小節と同じリズムとしている。ここは左手に合わせて分配する。この分配の仕方はCJ、CKと一致するが印刷の際にそうなったとみられる。ELのこのリズムはもとを辿ればA1に至るのだけれども、この変更は15小節目との相似によってなされた可能性が高い。26小節参照。
 56小節左手:ELでは最後の8分音符はfisではなくgisとなっている。他の資料にも好き勝手な変更点が見られる。
 61~62小節左手:主要譜表はCKから、バリアントはCJのもの。A1を信頼する立場ではCKの優位を認めざるをえない。CJではeをeisとしているが、61~63小節の音型と似ているため間違えたのだろう。その一方で、ショパンが61小節から他のノクターンでやったみたいに長調のトニックにして曲調を明るくしたかったという可能性を排除することはできない(ノクターンe moll WN23、cis moll Op.27-1、fis moll Op.48-2、 f moll Op.55-2)。


 これを読んで分かる通り、原資料に関する解説は演奏をする上でほぼ役に立たない。頑張って訳すだけ時間の無駄と感じるばかりであり、この反省からこれ以降は原資料については読まなくなった。
 一方、演奏に関する解説の方は、例えば幻想即興曲の解説で書いたように適宜示すようにしているけど、特に和訳という畏まった形で表示したりはしない。

参考文献
[1]岡部玲子, ショパンの楽譜、どの版を選べばいいの?, ヤマハ(2015)

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